いま許せないことは、あとでも許せないことなんだと、おもう。それを知るだけでも、今を生きることができる。
ひどいイジメの実態を聞かされて、いろいろと考えた。いつまでも相手を許せない気持ちもよくわかる。それは許せるわけがないと。しかし、もっと深く踏み込むと、もしかしたら本当に許せないのは相手ではなく、自分ではないのだろうか。自分を守ろうとして屈辱に耐えた、自分が許せないのだと。
なら難しいことではない。許すべきは相手ではなくこの自分だから。おかしなものだ。もし誰かが自分を助けるために、どんなことでも、どんな屈辱的なことでも、なりふり構わずしてくれたとしよう。勇気を出して暴力や屈辱に耐え自分を守ってくれたとしたなら。その人を恩人と思い、感謝することだろう。
それなのに。それと同じことをしたのが、自分であるとき。なぜ、こうも、こころは、許さないのだろう。おのれを。わたしを守ろうとして、わたしがしたことに罪はあるのだろうか。あの時さっさと逃げ出して、あとになって、のこのこ出て来て、苦しめる。こころよ、おまえに、聞いている。
他の誰も守ってはくれなかったから、自分で守った。自分で自分を守るしかなかった。それをこころはなぜ許せないのか。つよい誰かがあらわれて、助けてくれるはずの場面で。誰もあらわれなかったから。よわい自分があらわれて、ひどくぶざまに、守ってくれたのだ。
どんなにぶざまでも、命を守ってくれた者が、わたしはヒーローだと思う。よくやった。えらかった。ありがとう。(いいたいのは、これだけかも。)
からだの中に尖った破片や砂粒などの異物が入ってしまったとき。貝は「身を守るための生理作用」で分泌する膜で天然の「真珠」が作られるそうです。胸にささった破片を受け入れられないために、一生の痛みをかかえる傷ついた貝になるか。それと何とか折り合ってきれいな真珠貝となるか。二つの貝の道。
六月生まれなので誕生石は真珠です。「真珠の涙」という言葉の意味を調べたり。志摩半島で真珠の養殖工場を見学して、実際に貝を開いてやわらかい肉に、真珠の核を差し込む作業も、目にして、いろんなことを感じました。痛い物から、自分を守るために、呪詛ではなく、真珠を吐く、生き物がいるのだと。