生まれてはじめて沖縄に行きました。そして、離島に渡ってソーダ水のような海を見た。なぜガラスの器に入ってないのか不思議な気がした。こんなきれいな海の色をみたのは初めて。
二本のストローのように、足を海に差し入れると すうっとわたしが飲まれていった。水色のソーダ水に。それからずっとあたまが、からっぽ。
からからに、はまもみちもかわいていて。しろいさんごの浜は、やきあがったばかりの ほねのうえを あるいているよう。歩くたびに すずしいおとが する。
「ママンが死んだ」ではじまるカミュの小説『異邦人』を思い出した。「ぼくがころしたからだ」…と続くのだっけ?忘れちゃったけれど。その理由が「太陽があつかったから」だという。京都に出てきて初めて読んだ小説の、衝撃をわすれない。
(暑かったら木陰で休めよ、と思ったことも……)
南の夏の太陽のあつさは、感情すらも溶かしてしまう。そういう事なのだろう。「太陽が暑かったから」と「誰でも良かった」は似ているかも知れない。だとすれば、
彼らは、不条理ではなく、天然と出合ってしまったのではないか。脆い人工物として。
「deep south」南の果てには、ひとのりくつを飲みこんでしまう
大いなる天然がある。それを不条理などといわない。
天然という。
それにのみこまれないように、島のひとは祈る。
その祈りの手は、ひょっとすると
「stop」の両手を合わせたものでは
ないかと……おもってしまった。ひとのちからでは止められない
あとは祈るしかない、天然。
それでは、天然とはなにか。きっと「さかいのないもの」境界を超えたものでは
ないだろうか。南の島では、動物も植物も、海も空も、生も死もひとつに溶け合ってる
ような感じがした。夏の日差しでアイスクリームが溶けるように。。
軽い熱射病にかかり
細い配線が、焼き尽くされたようで、まだ、ものごとがうまく
考えられない。まとまらない。
ひとは足の下にあるものを、うまく呼べない気がする。
Deep south わたしは南の島で、ことばをうしなっていた。。
ことばが影なら、南の太陽にさらされて、わたしは影をうしなって
いた。
島で買ったTシャツのロゴにあった言葉「Deep south」それは
「close to north」と「一歩踏み込めば黄泉だ」とわたしには響いた。
その天国に近い景色は……。