息子が小学生のとき。なつやすみの宿題だったか。できたのを見てくれというので、見た。算数だったか国語だったか、答えを出す問題だった。それは正しくなかったので、「あら、これちがうわよ」・・・とつい消しゴムで彼の答えをさっさと消してしまった。そこからおおげんかになった。
「せっかく、ぼくが書いたのになぜ消したのっ?」「だって、答えが間違ってるからよ」「でも、ぼくが出した答えだ」「でも、間違ってるのに」・・・・・・で、もんちゃくし・・・・・・さいごの彼の泣きながら叫んだセリフがこうだった。
「間違ってても、ぼくの答えだ!」
なんとなく、気迫に負けてしまった。ああ、その親がわたしなのだなと思う(笑)。いろいろ考えてわたしはいろんなことを書いている、でもそれは解答ではない。わたしが解答など出せるわけがない。わたしのやってることは、レスポンス、応答なのだと。
応答とは何か。「いまここ」の声だ。いぬのワン、ねこのニャア、がけのうえのポニョ・・・それらみな応答だと思う。いたしかたのない――存在の鳴り声だ。
息子の憤りや飼い犬のワンや風鈴のチリンにそんなことを学ぶ日々の
*わがお台所の窓の写真です。草ぼうぼうに緑をいただき・・・^_^;
『崖の上のポニョ』をゆうべ観た。かんどうした。でも、いってしまったものがうまく帰ってこれない感がつよい。奪われたまま、不完全なからだで戻った感じがぬぐえない。おんなはこどもをうむとたぶんすこしどこかが、減る。そんな喪失感があるのはなぜだろう。
男の理想が描かれていると、おもった。おおきな愛に守られて、ちいさなものを愛する。母性のふところの安堵のなかで父性が育まれる、そんな愛の安堵のフローチャートをみるような気がした。
それにしても、(パンフすら買わないで、あて感だけで、毎度いい加減なこというが・御免ね)『ハウルの動く城』のとき、「動く城」とは「感動する心臓(ハート)」のことだとわたしは、おもった。そして、あの主人公はマイケル・ジャクソンをモデルにしてる。あの部屋も、崩れていく姿も、まんまマイケルではないか。宮崎はマイケルをとても愛しているのじゃないかと。いや、彼自身が日本のマイケルを生きているのじゃないか・・・と。で、今回その気持ちをさらに強くした。だって。いきなり出てくるあの目の下クマのおじさんなんか、もうビジュアルでもまんまマイケルではないですか。。。い。
今回の「ポニョ」でおもった、永遠の子どもの時空にか・く・じ・つに触れている、そういうタイムマシン・時空マシンのようなものを宮崎は発見した唯一無二の監督だとおもう。絶賛!!
「もしかしたら、ポニョは泡つぶになっちゃうかもしれないよ!」と心配する宗介に
「あら、わたし達はもともと泡から生まれたのよ」と笑顔のポニョ母――『崖の上のポニョ』より。いいなあ♪