仏教では感情を否定する。迷いの素だから。たとえば、なにかがあたったり怪我をしたりして「痛い」と感じることはだめだという。それは「わたしが痛い」という、「わたし」を引っ張り出し、わたしの「感情を」呼び起こすからだ。
どうとらえるかというと。「痛み」という。「痛み」という名詞で突き放す。じぶんの内部で。じぶんのものとしないで、おとずれたものとして、来客のように観察する。するとそれは自然に消えていく。あきらめてセールスマンが帰るように・・・(笑)
「怒り」「嫉妬」「憎悪」「怨み」・・・こういう感情をみな名詞でとらえ形容詞・動詞活用にしない。「憎い」と思った瞬間に、じぶんにひきつけてしまうから。じぶんのにくしみになる。それをさける。距離をとれ、ということだろう。距離をとるために各種感情を「体言止め」にしろと?
それは、まるで柵に入れられた「わに」「かば」「らいおん」「とら」「くま」みたいな感情の動物園の眺めだ。(笑)
「うらめしい」と形容詞化しとたんにそれらは柵から放たれる。形容詞・動詞はやっかいなものに足をつけてしまうことなのかな。足をつけたとたんに、「わたし」をのせて。わたしの獰猛な虎があばれまわるわけだ。
しかし。「自我」があるかぎり形容詞・動詞を求める。「わたしが」「くやしい」「わたしが」「くるしい」「わたしが」「うれしい」・・・この「わたしが」「餌(えさ)」を求める(!)。だから。仏教では、このわざわいの素である「わたしをすてよ」というか、元々「わたしなんてない」「わたしなんて存在しない」んだ錯覚なんだ、と教える。あるならここに取り出してその「わたしを見せてみろ」、と。あるのは、さまざまな欲や妄念にとりつかれた「感情の容れ物」だけではないか・・・と。
あれもこれも、とっぱらって・・・
んじゃ。いったい、なにがのこるんだろうね。(笑)
――こころのへいあん、らしいです。
「痛い」ではなく「痛み」ととらえる。痛み、止め。じつは瞑想のときの雑念の払い方だが、
この言葉の推敲は、まるで詩をかくときの所作にそっくりだと興味深かった。
ながく詩を書いてきて、言葉はもはや体の一部となっている者にとって、書き方(ことば)と生き方(なまみ)がまさにひとつになったようで、仏教の教えが非常に面白い。おたがいの中心に「こころ」があるからだろう。その教えは、あまりにも身にしみてときどき、かんのうてきですらある。むしろ、
わたしは釈迦・ゴータマブッダの悟った智慧よりも、その葛藤しつづけた激しい生身に(おお、シッタールタ!)官能を感じてしまう。。。なんて罰当たりなよこしまだらうねなんまいだ。なんまいもだ。
いわんや罰当たりをやの・・・修行はつづく。ちゃお。(^_^)/~~