晴れときどき 宮尾節子


宮尾のブログ talk to who?               
by sechanco
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チラ詩

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今月の例の『青空用』のチラ詩(笑)、外でエンジンかけたジープが、詩ができあがるのを待ってくれている…まるで「売れっ子作家の気分じゃないか、悪くないぜ。」とかおるちゃん(編集長)と大笑い。今月はトウモロコシかな?(原稿料)毎回、詩も朝取りです。読んでくれてありがとう。

暑さがきびしいぶんだけ、スイカや果物類がうんと甘い気がする。スーパーにいってフルーツ売り場をまわるのが楽しみ。夏そのものが一個のフルーツのようだ。追いかけてストローで刺してやるわ♪
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by sechanco | 2008-07-31 13:53 | ミヤオ・リターンズ

アルハルクラと世界一おいしいブリュレ

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80歳から絵を描き始めて数千点を遺した、オーストラリア先住民アボリジニの画家『エミリー・ウングワレー』の展覧会の最終日に行って来た。彼女の描く、点描・線描・網目模様それらすべての抽象は自然の姿からやってきていた。彼女は答える。「何を描いたの?」「アルハルクラ(故郷)」「アルハルクラの何を描いたの?」「すべてを」…。

ア・ル・ハ・ル・ク・ラ!——この言葉の響きだけからも遙か彼方のユートピアの景色が立ち上がってくるのはわたしだけだろうか。。(それは、「アブラカダブラ」の呪文に似ており。日本語の耳にも、「有る」という肯定、「春」という喜び、「蔵」という富が見える…。)

彼女の絵の特徴は、現代絵画の抽象画と似ていること。彼女が自然をとらえて描くものたちが、意識的に描かれる現代絵画の抽象画としても高い芸術性をもつと注目されたところだろう。映画でいえば、『クロコダエル・ダンディ』のおばちゃん版、芸術版といったところか。(^_^。

彼女の描く抽象的な点や線や網目は、自然の種であり、茎であり、根であるものたち。農夫が畑を耕すように筆を執り、芋や果実を収穫するように絵画を収穫したのだろう。いや、メロンが自らの肌に網目模様を走らせるように、迷いなく・清々しく絵筆は走っている。エミリーは大地の上にキャンバスを置き四方から描いたので、彼女の絵画に天地はない。その置き位置はそれぞれの展覧会場の意志に任せられていた。とても画期的なことだ。それは収穫したジャガイモに天地がないのと同じことだもの。店頭での並べ方・売り方は八百屋の店主に任されているのと同じことに似ていて愉快だった。

メロンの肌、水面、植物の根、へびやとかげの肌、砂丘、わたしたちのまわりをとりまく見なれた自然の一部を切り取って眺めるとすべて抽象画に変身する。エミリーはそれを気付かせてくれる。せかいはふしぎにみちていること。しぜんとともにいきるとはふしぎとともにいきることだと。

芸術とはよく見ること、そして、見たものを写し取ること。
その線にまよいがないこと。メロンはきっと迷わない。迷いのない線をどこまでも伸ばしつづけること。ヤムイモが植えられたら根を伸ばし続けるように、メロンがなったら網目模様を走らせ続けるように。エミリーにはあると思った、それらと同じに働く自然の手つきが。芸術作品になったのではなく、わたしは思った。ここから伸びてきたのだ、芸術という枝は。源にあるのは止む事なき自然の営みだ。そのおおもとの姿・芸術の原点を見たきがした。そして、あのなつかしい自然の退屈さもちゃんと味わいましたわ(時々あくびが・笑)。

しかし、その土着的なものがこれほど洗練されるにはマジックがいる。具象が抽象になる、自然が芸術になるためにはやはり「マジック」が必要なのだ。エミリーはそのマジックをもっている。そのキーワードは『ドリーミング』というアボリジニ独自の世界観だ。それに貫かれている。その『ドリーミング』はさきに書いた久高島の祭祀とともに生きる島人の『ティルル(神歌)』と似たものではないだろうか。かれらの日常のなかに非日常をとりこんだ世界観・生活感とリンクしているとおもう。

そして、この『マジック』の部分こそ、深くポエジーと関わるものであり
ことばの羅列が詩にジャンプするための、大切な鍵となることは
言うまでもない。

宇宙に抱かれて地球が存在するように、非日常に支えられて日常は
動いていることを、アボリジニのエミリーも久高島の神女たちも
おしえてくれる。夢や祈りによって世界を紡ぎ出し続けている。
わたしたちの正体は、こころひとつの「ゆめみるひと」なのかも
しれない。。。
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展覧会場は、六本木のガラスの城のような『国立新美術館』。すてきな女性のSさんとご一緒しました。ランチは3階のフランス料理で、ポール・ボキューズの「世界一おいしいブリュレです!」と(ウエイトレスさんのいう)空輸で運ばれるという濃厚なフランスパンやただものではないワインをたーくさんをご馳走になりました。料理やワインにとびきり詳しいSさんにいちいち教わりつつふむふむとうなづく、クロコダエル・ド・せっちゃん(笑)。三つ星レストランでご馳走になり昼間っからフランスワインで酔っぱらって夢のようでした。ありがとうございました。ながいきしてよかったわ。合掌。


*2枚の写真は、エミリーの絵画『ビッグ・ヤム・ドリーミング』と光の網目に掬われている近所の『入間川の川面』です。マジックひとつで行ったり来たりがはじまりませんか?
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by sechanco | 2008-07-30 08:21 | ミヤオ・リターンズ

ダースベーダーとイラブー(沖縄幻想紀行・スケッチ)

海に面して立つこの地の家々は、2階に張り出したベランダ(屋根がないので正しくはバルコニーだろうか)に特徴があった。それぞれの柵の部分に欄間のような飾り模様がある。それが家の顔にみえる。潮風にさらされカラカラに乾いてしらっちゃけたこの建物の顔が、いくつもいくつも海の彼方を見つめるように山沿いに並んでいる。それは白いシャレコーベがたくさん山肌に置かれているような錯覚をおこす。
「あっ、ダースベーダーの仮面ってシャレコーベのデフォルメだったんだねー」イメージはどんどんスキップしていき…。
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『Luke, come on to the dark side...』とダースベーダー(映画『スターウォーズ』)の口真似で連れを脅したりながら(笑)わたしたちは、船でK島に渡った。

島の売店で奇妙なものを見かけた。風鈴のように目の前にずらっとぶらさがっているのは真っ黒な渦巻き状の干物。?。「イラブー」と書いてある。こころのじゅんびをした(笑)・・・sechan on the dark side, or wild side?

隆起サンゴ礁でできたこの小島は、農耕のための土や水に恵まれていない。浅い土層のわずかな畑地と、雨水がサンゴ石灰岩に吸収されて岩の間からしみでるわずかな水のみ。。人が暮らすにはきびしい条件の基へ、訪れる生き物はみな「神からシマ人への贈りもの」と考えられてきたようだ。だから、大切に頂く。よろこんでいただく。

イラブーとはエラブ海蛇のことで。毎年ある時期になると、この島めざしていっせいに産卵にやって来るという。イラブー漁の歴史は古く、かつてはイラブ漁ができるのはノロ(最高神職者)をふくめ三家の特別な神職者のみと決まっていたそうだ。神聖な神事として海蛇漁があったのだ。

そして、
女性のみで行われる(行われていた)イラブー漁の記述にわたしは息をのんだ。

『時刻でいうと、夜の潮の満ち始めるころと潮の引き始めるころである。漁の時期になると、先の三名の女性たちは毎晩イラブー漁をすることになる。イラブー漁のために作った小屋で仮眠し、潮を見はからって漁をする。
 イラブーは素手で首根っこを押さえて獲る。使う道具は懐中電灯(昔は松明だったが)と布袋だけである。イラブーは海蛇で、ハブよりも強い神経性の毒があるが、毒牙は口の奥にあり、性質はおとなしいため危険は少ない。』

『イラブーは場所や状態によって獲り方がちがう。岩と岩のあいだの波の打ち寄せるところでは、波が打ち寄せてくると同時に、波に手を勢いよく入れる。また大岩の下には畳一枚ほどの波の打ち寄せる砂場があるが、そこは地の底のように真っ暗闇である。そこでは腹ばいになりじっと耳をこらしていて、イラブーがサラサラと這い上がってくる音を聞いて獲る。また交尾のために一匹の雌イラブーに数匹の雄が絡みついている場合がある。そんなときはまずイラブーの上にどっかと座り、お尻で押さえておいてから一匹一匹、首根っこをつかんで』引き抜いて獲るのだ。真っ暗闇の中で…。

『蛇を手づかみにする光景は異様であるが、当人たちは慣れていて、むしろ獲った喜びは大きいという。』


『獲ったイラブーは生きたまま袋に入れ、久高ノロ家の小屋に保管しておくが、陸上でも数十日生きている。獲ったものが』一定量になると、『男たちが中心になって「バイカン小屋」と呼ばれる専用の薫製小屋で、ていねいに薫製処理をおこなう。』
*『 』内は『日本人の魂の源郷 沖縄久高島』比嘉康雄著 より引用。

イラブーはかつては、王様など一部の高貴な人々に献上するための最高級品だったそうである。今は、一般のシマ人が漁をして強壮剤として那覇の市場に出荷されているらしい。
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白い砂浜に打ち寄せる宝石のように美しく清らかな海と、深い闇の底で自らの毒と格闘するような壮絶な海蛇漁。それはよそ者の目には天国と地獄の景色をかいま見せられるようだが、ここではひと連なりの景色のなかにあり、意識のなかにあると思われる。

天然のすがた。それは、何かが(うまくいえないが)ふたつに分かれる前の
ひとつの姿のことだと感じつづけていた。光と闇。昼と夜。聖と俗。善と悪…生と死
そんなもろもろの人の決めた分別がつかなくなる、効力を失ってしまうような、
天然の大きな懐に触れた気がするのだ。

一度だけ、むかしNHKだかのテレビで、南米の山間民族の鳥葬の儀式を見たことがある。孫にあたる小さなこどもが草原で、おばあさんの遺体を棒で砕いてる姿。(さすがに、その映像は遠景で撮ってあったけれど…)そばにはハゲタカが待っている――それを観たとき、わたしは自分自身の価値観の足場がぐらぐらゆれはじめるのを感じた。いったい、これはおぞましいことなのか、神聖な儀式なのか。まったくわけがわからなくなってしまったのだ。じぶんの立ち位置を失った。ふたつの気持ちにひきさかれそのどちらにも心が着地できない…はじめての感覚を味わった。

ゼロ地点。。あれこそが、今わたしはおもう、生の実感だったと。生を実感する
場所だったと。ココカラヤッテキタンダ・・・ト。

そして闇のなかで意識を沈めて、耳をすませ、砂地にサラサラと這い上がってくる
イラブーを一匹一匹手掴むことが、一行一行の詩を引き抜き掴みあげること
詩をかくことだと…かんじてふるえた。。

はじめてみるけしきの…なつかしさに。
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by sechanco | 2008-07-28 08:10 | ミヤオ・リターンズ

暑中お見舞い申し上げます。

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暑い日々がつづいています。わたしにはまだ沖縄の日々がつづいているような錯覚におちいります。きのう道のまんなかに落ちているアオスジアゲハを見つけました。だいすきな蝶。まだほんのり生きている気配があったので。手のひらに乗せて道端の花に移した。好きな蝶をアップで見れておまけに手のひらに載せてるなんて。わが手にちいさな幸せがのってるようで嬉しかった。どこも傷んでないようだったので、寿命だったのかなとも思ったけど。蝶はとしがわかりませんね^^。表紙のきれいな本を読み終えるみたいに、翅を閉じて生涯を終えるのかしら。少しだけ水分も補給しておいた・・・?

炎天下に、やはり道路で行き倒れたオニヤンマを救助したこともあるけれど。スズメのときで成功した(とっさの水分補給の思いつきの)マウス・ツー・マウスをしたら(笑)。息をふきかえしたオニヤンマにおもいっきりくちびるを咬まれてもの凄く痛かった。まむしでやったら命とりでした。

あんまり暑くて。昨日はついに、水に飛び込んで今年初クロールです。良い気持ち。みなさまご自愛ください。そして良い夏を。


*『ぼくの夏休み』K画(初テンペラ)
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by sechanco | 2008-07-24 08:30 | ミヤオ・リターンズ

ティルルは神の歌

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ことばがあふれてしまって、ほとんど洪水のようになってしまって収集がつかない。ここに何度も書き始めるが、どうも公開がはばかられるような、とりとめのないもので、非公開にしてしまう日々が続いている。

いくら書いても書いても書き足りない思い・・・核に届かない思い。この自分のこころの濃度に見合う記述方法は、あらためて思う。詩しかないのだと。
詩という形式でしか、詩という乗り物でしか、ここで自分は自分自身をぞんぶんに生きることはできないのだと思う。整った散文には乗り切れないわれわれは異形の生き物だ。

詩を書こう、ではないはずだ。木陰や草陰でしか生きられない虫や精霊のように
詩でしか書けない、生き物だろうが我々は。

K島の祭祀の神の歌(ティルル)は、かつてシャーマンによってのみ歌われていたときは今のように固定した歌の形、「定形ではなかった」という。神歌は本来、人ではなくその時おりてきた「神によって歌わされる」歌であり、歌う者にも毎回どう歌わされるかは未知であり。その時々の祈りに応じて立ち現れる「不定形な歌」こそが「本来の神歌」であった。それが琉球王朝の施行によって祭祀もある程度制度化されたときに、「定形化されて」しまったということらしい。そして、『魂の源郷 沖縄久高島』(比嘉康雄著)の著者は言う。
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「神霊の発する神詞のリアリティは不定形のときの方が強かったことは確かであろう。神歌を定形化することによって作為性が加わり、神が発するというリアリティは弱くなったと考えられる」と――。

(古くからの祭祀が女性によって守られている島・・・というそれだけの、いつか小耳にはさんだ予備知識のみで訪れたK島(なんとなく実名を口にするのがはばかられて・・・)で、なにやら深くあびたものを言葉でたどろうと今頃になって、パンフレットや本を読み始めたのだ。)

魂の源郷をたずねるということが、詩の源郷をたずねることと重なってしまうのは、こういうことなのだ・・・。別に詩が神の歌だ・・・などと言いたいわけではない。少なくともノロ(最高神職者とされるシャーマン)がティルル(神歌)を歌おうとしたときの胸のうちは、(うまく歌おうとも良いことを言おうなどの作為のない)無垢な状態であったこと。まっしろな白紙のじょうたいで言葉がおりてくるのを待っていたこと。そこに定形という器の構えはない。その「信じる胸以外術なき場所」にあらわれてくる「不定形のもの」それは人が始めてみる形のことだ。人がはじめて見る形。それを神の形とかれらは思い「神の歌」と呼んだのだ。

「不定形」とはなにか。定形ではないとはなにか。それは「Here and Now」を、「いま・ここ」を生きる形のことではないか。

それはまた、定形では生きられない、つまり一般の日常の枠では生きられなくなった者たち(こころをふくめ)を救うべく、苦悩を掬い取るべく立ち現れた「つかの間の避難所」のことではないか。不定形とは。。

「定形では生きられない」なら神の名を呼ばなくても、「大丈夫、不定形がある」それを伝えるべく書くのではないか私たちは詩を、詩という形式を。

魂が自在なものであるなら、自在であるべきという形式のゆえに
詩は魂と近しいとおもう。そして、定形になったとたんにリアリティを失った神歌と
同じものを詩も失うのだ。でも、それは島の人と同じに「神」と呼んでしまったとたんに
失うものでもある孤独を詩はさらに荷っている。

みたことのない形がやってくる、きいたことのない言葉をしゃべる。それはもともと、祈りの場所にあったものだ。。そのことだけは、忘れずにものを書いていきたいとおもう。

やっぱり、とりとめのない、ことを書いてしまった。これを非公開にしたら、
もう、たぶん、わたしはこの場所にもどってこれない気がする。
でも、もう少し先にすすめて書きたいことがある。だから、公開すると思う。。。すいません。(^^

K島で、やっとうちとけることができた(島の年配のひとはちょっと近寄りがたい、険しさを顔の表情にもたたずまいにも漂わせている・・・)お婆さんにきいてみた。「ノロ(最高神職者であり、祭祀のリーダー役)は、どうやって決まるのですか」

「うん。しぜんに本人にもわかってくるんだ。なんとなくだんだん、普通には生きづらくなってきてな。そしたら、だんだんまわりもあー、あの人がこんどノロになる者だなあと気がつくんだよ・・・そして決まる」

そんなふうに、おしえてくれた。そして思った。古くからこの島で彼女たちが守っているものの本質とは、定形をはずれた者たちを受け入れる不定形の器を神器として大切にしているということではないだろうか。それは、日常の中に非日常を共存させるということだ。

ダンダン 普通ニハ 生キヅラク ナッテキテ ナ・・・

島人のいっけん人を寄せ付けぬ険しい顔のその奥座敷には
(どのような者も取りこぼすことなく!)
みんなで共に暮らすための智慧と
深い愛が潜んでいると

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わたしは思った。
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by sechanco | 2008-07-23 13:19

青空といんげん豆

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内職のような小さな詩のしごとがある。わたしの棲んでいるあたりは『奥武蔵』ともいうそうですが、新聞の折り込みにときどき『奥武蔵エリア新聞』というタブロイド判の一枚新聞がはいる。その裏が手書きの『青空通信』という福祉関係の情報欄になっている。どかっと束になってあらわれるパチンコ屋・不動産屋・スーパー・ディスカウント店の色とりどりのハデハデな新聞のチラシの中に…白黒で今どき手書きでイラスト入りのこの青空新聞がかわいい。そこに月一でちっちゃな詩を載せてもらっている。ひとびとの日々の暮らしにちらっと詩を忍び込ませる「ちら詩」…^^;。たまに野良仕事をしてる婆さまから「こないだのよかったべやー」と声をかけてもらったりすると、うんとうれしい。そして、いらないというのに美人の編集長が持ってきてくれる土付きの原稿料(笑)。ネギにほうれん草にヤーコン、先月はじゃがいもで、今月は先払いで袋いっぱいもらったいんげん豆。詩で食わしてもらってるとはこのことだべー(笑)、ありがたいです。

この星で…
詩のためにもらったタバコ一箱分のスペースを
ささやかだけれど、いっぱんの人と詩の架け橋になる仕事だとおもって
大切にしている。

*昨日いんげん豆になった、「青空」用の今月の詩です。(^_^
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*写真は久高島より帰るときの船上にて撮影。クリック♪希望。
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by sechanco | 2008-07-14 09:17 | ミヤオ・リターンズ

どこへいくの

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とぅしあまい ないびたん        (年が余りました)
てぃらばんた うしゅきてぃ       (テイラバンタにきました)
しっち はたばるや           (干潟は)
なみぬしゅる たちゅる         (波が立つ)
なみや はたばるや           (波の干潟は)
ひぶい たちゅさ            (煙が立つ)
にるやりゅーちゅ うしゅきてぃ     (ニルヤリューチュにきて)
はなやりゅーちゅ うしゅきてい     (ハナヤリューチュにきて)
ふがにじゃく はみやびら        (金盃をいただこう)
なんじゃじゃく てぃりやびら      (銀盃をいただこう)


近年まで風葬がおこなわれていた、K島の葬送歌である。「寿命になり葬所にきました」「あの世ニラーハラー(ニラヤ・ハラヤ)に到着して」「神様から金盃・銀盃を頂きましょう」という意味の歌らしい。だいたいは、言葉の音色を耳になじませ、幾つかの単語を教わると、なんとなく意味はわかり思いは伝わってくる。けれど…

そのなかでも、3節目からの「しっち はたばるや」から6節目の「ひぶい たちゅさ」はどうしても、「何を表現しているか、よくわからない」*

*比嘉康雄『日本人の魂の源郷 沖縄久高島』の著者がいうように、わたしも「なんだろう…」と同じところでつまづいた。

詩を書く、ということは。少し乗り物を代えてみるということかも知れない。すると、日常では解けない謎を解く、乗り物としての非日常があらわれる。ふだんのひとに、詩は難解だと敬遠されるけれど……この3節から6節に渡ってがまさに詩の仕事がなされていると思う。それも高度な比喩がポエジーを顕(た)たせている。

著者は、そっと島の年配者に、葬送歌のこの部分を尋ねてみたそうである。すると、「三〜五節は死者の肉体が腐乱して溶けていくさまを、ユタユタと立つ干潟の小波にたとえて歌ったもので、六節は溶解した肉体が煙り(ヒブイ)となって飛んでいくのだ、と教えてくれた」と記している。

「干潟は、波が立つ」じつは、このフレーズでわたしは微かにビジョンがみえていた。まず、あのK島の絶壁やその崖をなすおそろしく険しい表情の岩肌に、白いうつくしい波が寄せては引いていくさまは、きびしくごつごつした人生の骨から、傷んだ衣をやさしく脱がしてやるように、肉体の肉をときほどいていく癒しの景色が確かにあったから−ー。

比喩というより、「まんまの景色」に近い。むしろ、風葬でひとが朽ちていく状態と、あの海岸に波が打ち寄せしている状態に差がない。どちらからでも読み取り可能な、交換可能な、天然の、あちらとこちらに境のない景色がそこにはあった。

わたしはこの島で何をみたか。詩の源郷をみたのかも知れない。もし、わたしや誰かが書く詩の中に、これらのフレーズがあったら「わからない、むつかしい」といつものように閉口され、さっさと立ち去られるにちがいない。でも、ここでは普通のおばちゃん(笑)たちが了解しているのである。。。なぜか。この場所には、わたしたち現代人が忘れかけた、儀式という非日常が生きているからだ。もっといえば、非日常が日常のなかに取り込まれているからだ。

がんらいは、日常にとりこまれていたがどんどん、切り離されていった非日常、
詩人とはその切り離された側のたましいの末裔かもしれない。

非現実的で無駄に見えて、どんどん廃れていく「儀式」は、肉体とは別個にあるとされる、「魂のため」のものだと思う。あるいは、儀式だけがのこって「魂」が捨てられたのだろうか。それは、テクニックだけが残って「何のために」を忘れた「盆栽」のような現代詩にも言えることかもしれない。その「巧さ」は、魂が気に入らないならそう呼ばないが——ひとの「深さ」に届いているか。

けっきょく、届く言葉は深度(濃度)だとおもう。

自然自体が深く濃い。その場所で生きるとはそこで生まれる深くて濃い言葉を生きることだ。あまりにも深くて日常では取り扱えないものは、非日常をこしらえてそこに預けて。だから、おびただしい祭壇や祈祷所が島にはある。そして、日常と非日常はともに暮らしている。ともに、ゆたかに暮らしている。聖俗も美醜もそして、生も死もともに仲良く……。

人が住んで生きて暮らしている島を見た、というより、人が住んで生きて暮らしている詩を、わたしはこの島でみたのだろう。

なんだかとりとめないことを、いくらでも書いてしまう。。。ごめんなさい。
読んでくれてありがとう。<(_ _)>

誰とは言わないが……、恋をしたような気分になってしまっている。。
南の熱がとれないわい。やれやれ。
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by sechanco | 2008-07-13 11:59 | ミヤオ・リターンズ

ママゴト遊び

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小島さんから、詩誌といっしょに贈っていただいた、ちいさなNote book。
開くと美しいレース模様の白い紙束が薔薇のように、手の中で咲いた。いちまい、いちまいが花びらのように柔らかくなんどもなんども撫でていたくなる感触。ランダムなサイズの頁のまんなかには芯のような小さな塊も入っていて、「あ、白薔薇が本になってる!」(「薔薇がひらく」と「本をひらく」のことばが一瞬で目の前でつながり――)と気付いて、ひどく感激した。彼女の詩集『((天使の羽はこぼれてくる))』のなかの、薔薇のひだに眠る蜜蜂が幻視えた気がした。。。

とたんに、スイッチがはいった。からだはおもしろい。たのしいと勝手に動き始める。それからは、梅漬けにしそを入れることも。旅行中にたまりにたまったあれこれもほったらかして。「開かずの箱」に近い裁縫箱を、あけて。ボタン付けだって一年がかりの苦手な糸と針をとりだして、つぎは、S子さんに頂いたばかりのきれいな薔薇を残酷にむしるところから(!)。。わたしのママゴト遊びははじまった。こどものころと同じあの懐かしい気持ちがよみがえり夢中になっていた。
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そして、小島さんの「Rose Note」(ああ、あれは天使の羽だったかもしれないと、後で気付いたけれど…。見間違いや聞き違いこそがすでに詩の発動の徴だ。)のWhiteのお返しに赤い『Rose Book』をつくった。詩をつくるように、気がついたらできていた・・・というのが正解。薔薇のいっとう大きな葉っぱを表紙にして、文字も入れた。開くとこんな感じ・・・
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一つの薔薇でつくった、一冊の本。一冊の本の頁がぜんぶ一つの薔薇の花びらでできている。本を開けると、薔薇が咲く。薔薇が読める。。。「触発」される、とはまさにこの事だと。じぶんの行動におどろきながら躰で了解した。とてもうれしかった。頂いた薔薇も本になって、生きたとおもう。

なつかしいママゴト遊びを思い出させてくれてありがとう。小島さん。(^_^

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by sechanco | 2008-07-10 11:32 | ミヤオ・リターンズ

頂いた

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「海亀の通り道だよ。昨日のゆうがた5匹見たよ」と島タクの運ちゃんに教わって、潜った海の。浜辺で見つけた椰子の実ひとつ。頂いた。品種:「遠き島より」(joke)サイズ:シャレコーベ(M)  特徴:振るとちゃっぷちゃっぷ波の音。



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初日と最後の日に泊めて頂いたAさん宅で、頂いた沖縄初日の晩ご飯。感激。採れ立ての海ぶどうの美味しいこと。ぷちぷちが病みつきに。熱帯魚の?お刺身と麩チャンプルと、のどかなロゴに癒されるオリオンビール。飲み口すっきり。ご馳走様でした。あとでご主人がさんしんを弾いてくださった。朝は広い窓から水平線が…わおっでした。



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薔薇上手のSさんに、「お誕生日に花が咲くようにしたのよ」と丹精に育てられた薔薇を頂いた。淡いピンクのまんなかの大輪が特によく匂う。枕元のテーブルに飾って、薔薇のそばで眠った。薔薇の香りで目が覚めた。ごおじゃす。



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北海道生まれのMさんから、彼女が紅花で染めたという美しいスカーフを頂いた。あまりに色がきれいで、首に巻いたり手にかざしたり一日中見とれていた。眺めているだけで幸せになる色。しあわせをもらったようだ。島でなにかにかぶれて熱をもった首周りを、そっと包んでくれるシルクの肌触りが涼しくやさしい。ありがたかった。宝物になった。



頂いたもの、して頂いたことに見合うようなヒトにならなくちゃと…とちょっと焦った(笑)誕生日でした。もったいないものばかりです。ありがとうございました。

「ところで、幾つになったの?」「あのね、いっぱい。」(^_^)/~~
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by sechanco | 2008-07-02 09:54 | ミヤオ・リターンズ