晴れときどき 宮尾節子


宮尾のブログ talk to who?               
by sechanco
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じゅもん

a0082132_14294431.jpg
書仕事にのめりこんでいる。すると、こちらのからだのことを忘れる。ときどき、息をしてないのじゃないかと思うときがある。そんなわけはないが・・・。たぶんしてない。サザエを採りに伊豆の海に素潜りしたとき、あ!そっくりだと思った。コトバを採ってくるときと。深い言葉が欲しいときは、深いとこまで潜らないといけない。おっきいのが採れたとおもっても、あがってみたら錯覚だったという、くりかえし。悦びと落胆の。そして、海にもぐったときとおんなじで。めちゃくちゃな時間のたちかたがする。竜宮時間とよぶような。あがったらよくふけている。まあこわいちや(土佐弁)。

伊豆の民宿のおばちゃんは60歳で30メートルは素潜りできるといっていた。すげえ。お産もおかげで軽かったとよ。ふつうのおばちゃんの見たふつうではない海底の景色を想像して。こころがもっていかれた。なんでかそのときの想像のおばちゃんのいる海底が今でもふかくくらくあおあおと脳裏に残っている。おばちゃんはサザエやアワビでわたしはコトバです。だから、ときどき生臭いかも。

ふっと我に返ったとき。マジックでこういう書きとめをしておく。そうしないと、こちらに帰って何をすればいいかわからなくなる。たにんがみたらいかがなものかとパチリ(笑)。

ひるご・・・昼ごはんを食べろということ。わたしのため。

かとり・・・犬小屋ふきんで蚊がでたので、香取線香を買えということ。犬のため。

つまり、
備忘メモです。^^;
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by sechanco | 2008-08-31 14:58 | ミヤオ・リターンズ

おはよう

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あさがすきです。あさがわたしのじかんです。詩を書き始めるのも朝。よあけのやわらかいひかりにつつまれて、ことばに触れている時間。するとだんだん外が明るくなる。

ことばにふれているとあかるくなる・・・体にはそう翻訳されているようで(笑)
わたしの朝は言葉と珈琲ではじまります。

すると、ときどき手のひらの中で「おはよう」の
詩がいちりん咲いてくれる。

おはよう。

More・・・
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by sechanco | 2008-08-24 07:25 | ミヤオ・リターンズ

キモ

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著名詩人が多く参加してるイベント・サイトのスポンサーが某宗教団体になっていた(名前に触れると宗教団体の頁がひらく・・・)。まさか――と。何度も見直したが。なにかの間違いであって欲しい。ものすごく、

きもちがわるい。

More
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by sechanco | 2008-08-22 10:33 | ミヤオ・リターンズ

ほんの少し永遠に

a0082132_10553375.jpg「絵は終わらないからいい」そういう言葉をどこかで見つけた。見終わることがないから、いつまでも楽しめていいねという意味だ。ああ、そういうことかと気付いた。

なんでも例外はあるので、いちがいには言えないけれど。漫画と絵画のちがい。商業製品と芸術作品のちがいは、かんたんに言えば「奥行き」だなと思っていた。(かんたんにいうのがすきなので…申し訳ないね)「出てるだけ」が勝負なのかまだまだ「奥行き」がとれるのか。「絵の終わらなさ」とこの「奥行き」は響きあうものだ。

「絵の終わらなさ」は、絵画を見ている側に運動を引き起こす。いつまでも谷間にひびきつづけるコダマのように。それに応えて絵画(作品)の側は、どこまでも「奥行き」をふかめる。そのとき、両者お互いのそんざいの深さのようなものが競い合うとはいわないが、試されあうのだとおもう。そこに特異なコミュニケーションがうまれている。

小説は「読み終える」という。しかし、同じ言葉の連なりでも。詩という表現は、ほんらいは絵画とおなじで「読み終わらない」側に属したそんざいだとおもう。意味がわかる、わからないではなく、ひきつけたままおわらない場所にいる(あの旅の初まりに駅のプラットホームに立ってる感じに似てるかな、わたしの場合。)————それが成功した詩というものだと。そして、「読み終わらない」の「王」をめざした結果、「わからない」の側、「難解」の側へ「振り過ぎて」座礁したのが現代詩の滅びゆく裸の王の姿だと……。

終わらなさ。ひととき、この終わらなさに触れる時とは
ひとがほんの少し永遠に触れる瞬間にほかならない。
それは有限な存在が無限に触れるすばらしい
感動の瞬間だ。

成功した詩・絵画・写真というものは、永遠のワンカットであり
題はつねに『ほんの少し永遠』なのだと————わたしはおもう。

わたしは、あまり必要と興味をかんじなくて(自然音以外の)音楽や歌の世界はまったく門外漢だけれど、石川和広くんという詩人が訳していた『THE POLICE』という歌手の『King of pain』という歌詞にひどく打たれた。田村隆一の有名な詩『立棺』にひってきするほどの訳詩だとおもえる。とても素晴らしい訳だ。これは石川君の詩だ。そしてこの「訳」のしごとやセンスこそが詩人の仕事だとわたしはおもう。翻訳者は詩人の仲間だと…。いや、詩人が翻訳者なのかも。。

高い垂直の崖の断面に囚われたままの化石
私の魂はそこに存在する
滝の中で体をくねらせたまま凍りついた鮭
私の魂はそこに存在する
春の海の引き潮で浜に打ち上げられた鯨
私の魂はそこに存在する
くもの巣にとらわれた蝶
私の魂はそこに存在する

降りしきる雨の中でずっと前からここに立っていた
私の脳の周りをぐるぐると回る世界
私はいつもこの地獄が終わればいいなと思っている
でも終わることはない
その苦しみの王たることが私の運命なのだから


(THE POLICE "king of pain"の歌詞を部分的に石川和広氏が訳したもの)
 


そして…川田絢音の『屋根裏部屋』という詩のはじまりは
今日もわたしの目の前に天使を堕としつづける……

けさも
わたしのテラスに
血痕と 二枚の翼があった



……なんど、あとにつづく言葉で
これが、猟のうまい猫にやられた小鳥の屍体だと
わかってもだ。。彼女の言葉は永遠に触れている
からだ。彼女の現代詩は素晴らしく成功している。
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by sechanco | 2008-08-21 09:45 | ミヤオ・リターンズ

ひらく心と睡蓮と

a0082132_63289.jpgせんじつのPLAY BOY誌からの飛び方がはげしいけれど(笑)・・・『大法輪』という仏教雑誌の8月号に、興味深い記事があった。(じつは懇意にさせてもらっているYさんという、この号にも執筆されている唯識仏教専門家であり僧侶である方のご縁による雑誌だが、Yさんについてはいつかゆっくり書かせてもらおうと思う。)

いちばん言いたかったことなのに、どうしてもうまく言えなくてずっともやもやしていた部分を、見事に言葉にしてくれてすっとした、それは記事だった。『テーラワーダ仏教の教科書』というタイトルで『アルボムッレ・スマナサーラ』というスリランカの人(スリランカ上座仏教長老)が書かれている文章の中で見つけた。彼は日本に来て25年も経つ方のようですが―。

テーラワーダという耳慣れないコトバが頭につく仏教とは、ブッダの時代に使われていたバーリ語(現存する完全な経典セットはバーリ語だけとのこと)の経典を「ブッダの教え」として守り伝えている宗派のことらしいです――。ブッダが実は「宗教嫌い」だったことや、ブッダの生きた時代はヴェーダ聖典に記されたブラフマンという「神の言葉」を鵜呑みにするしかなく、そこに精神の自由などなかったこと、そして当時の主要宗教であるバラモン教はバラモンという特権階級(カースト)に傲慢に支配されたものであったことなどを説きつつ、スマナサーラさん(著者)は「宗教のおそろしさ」について、こう続けるのです。

政治的な独裁者がいたとしても、束縛されているのは我々の身体と言論くらいです。心までも束縛することはできません。例えば、昔のソ連は政治的な独裁国家でしたから、身体の行動と言論はかなり抑えられていました。それでも、自分の自由に考えることぐらいはできました。
 しかし宗教は、政治家にも、独裁者にもできないことをやってのけます。宗教は『心』を束縛してしまう。自由に考えるということを抑圧してしまうのですね。その状況は、お釈迦様の後で現れた宗教でも変わっていません
。」


「心を束縛してしまう」それが、「宗教のおそろしさ」であること。わたしがずっと思っていてうまく言えなかったことは、なんだ、こんな簡単なことでした。それをさらっとかれはいってのけるのでした。どうもありがとう。
じぶんのこころをなくしてしまったら、わたしたちに帰る場所はありません。夢の覚める場所がなくなるということです。宗教絡みの戦争が終わることがないのは、かれらが宗教にではなく、宗教の併せ持つこのおそろしい罠にはまっているからではないかと思います。

それでは、お釈迦様の教えである仏教が他の宗教と違うところは何なのか。「精神の自由」だとスマナサーラさんは説きます。それが『解脱(げだつ)』のほんとうのいみなのだと。身体はさまざまな制約があり自由には成りえないけれど、精神は自由になれる。「心を自由にすることはできます。心を自由にすれば一切から自由になる、ということで、ブッダは『解脱』を説かれたのです」――と。

どれだけ自由になれるか――。そのこころのつばさをことばのつばさにかえて
詩が書いていけると、いいなあ。しあわせだなあ。。。


*農協の店先で、ずっと売れ残っていたスイレン。炎天下でみるにみかねてついに買ってしまった。(おかげで卵はお金が足りず・・・笑)そしたら、植物もすごいね。翌日「ありがとう」って花をつけてくれたよ^^。朝、花の中芯に朝日が射しこんでてぽおっとそこだけ明るくなっていて・・・かみさまがおりてきたようで(笑)・・・見とれちゃった。

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by sechanco | 2008-08-17 09:54 | ミヤオ・リターンズ

たまや!

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京都の写真好きのおともだちのみず保さんが、ナニワの花火大会の花火の写真をたくさん撮ってらして。時々サイトにお邪魔して花火見物をしてます(^^。すばらしい!と声をあげたら、「じゃあ詩をつけてよ」……うん。(断れない星の元♪)つけたよ、と。(^_^)/~~

かくして、きょうも、おそうじせんたくえとせとらが…えっと、まっいいか。(笑)
こんど生まれ変わったら、そうじせんたくまきわりみずくみ、なんでもさくさく
やりまっせ。待っててね!(…?)(^_^)/~~

今年の花火は写真の花火ばかり。あ、夜の犬の散歩のときに、家の間から
突然ひとつだけ見えたか…シュロの葉っぱが化けて出たかとおもったよ。(嘘よ)
*写真をクリックしてみてくださいませ。
★みず保さんのサイト・なにわの花火写真集はこちら
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by sechanco | 2008-08-15 10:27 | ミヤオ・リターンズ

保健室の匂い

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保健の先生にたのまれて書いた詩…

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by sechanco | 2008-08-13 09:01 | ミヤオ・リターンズ

エアー・ラブと白紙と

あんまり楽しみにしすぎて、かんじんの女子バレーの時間には途中でちからつきて眠ってしまった(笑)。1セット目をとられたアメリカから、2セット目を奪い返して、ほっとした3戦目の途中から記憶がない。なんてこった。でも、なんで夜中にやるのだろう。時差が違うわけでもないのに・・・やるほうもみるほうもからだによろしくないですに。不健全だ。

ただ。その前に観ていた、射撃(エアー・ピストルというらしい)には、どきどきした。射撃という競技ははじめた観たが。ちょっとしびれた。あのにぎやかではでなお祭り騒ぎのオリンピックという大舞台の片隅で、こんなに密やかで静かで孤独な競技がおこなわれているとは知らなんだ。。10メートル先の20センチ四方の標的のなかの、さらに数(3?)センチの中心を狙う。とてもスリリングで官能的なスポーツ?だ。

片うでをすーっと伸ばしてピストルをかまえる。もう片方の手はズボンのポケットにしのばせる(このふらちなかっこうもなかなかぐう)。的の中心を狙い定める・・・ツン!・・・弾があたる音。その一部始終の表情をカメラが正面から捕らえるのだが・・・うつくしい。とても、うつくしい。男が美しい。獲物を狙うときの男の瞳は、こんなにも美しいのか。

ひょろひょろもでぶっちょも、おいもわかきも、十人といろの男たちが、ひとりひとり立ちつくし。ねらっては、やすみ。顔をまっすぐあげて撃ち、顔をおろし横を向いてはリラックスする。狙うときは写真のように停止して、撃ち終えると動画のように身が崩れる。停めて撃って崩れる。とめて・うって・くずれる。物音ひとつしない静かな空間でのその繰り返しが妙に色っぽく。いちれつに横並びした競技者のひとりひとりが皆例外なく美しく見えるのだ。こんなに真剣で孤独な男の眼差しや姿をまともに見る機会はそんなにないからだろうか。それも真正面からだ。息ひとつおろそかできない、コンマ何秒の世界で、何ミリの撃ち位置を競う。緊張と弛緩の繰り返し。そして、喜びと落胆の表情が、直立不動の静かな茎にも似たパフォーマンスのさきで、一輪の花のように咲いたり散ったりする。

その姿は恋する男の姿に、あまりにも似ていた。それも別離のクライマックス・シーンに。――恋人を乗せて遠ざかる電車を見送る男のシーンにそっくりなのだ。ピストルを持ってさしのばす腕。それは、「待ってくれ。行かないでくれ・・・」と立ち去る恋人にぐっとさしのばす男の腕。的を狙う真剣な眼差しは、熱い胸のおもいのたけを打ち明ける男の眼だ。そして、撃ち終わってリラックスするときのうつむく角度は、電車が立ち去ってしまって、取り残されうなだれる男の。そして、撃つときのもう片方のポケットに入れた手は。たぶん恋人に渡すつもりの指輪の箱を握っている・・・・・・なんちゃってね。

ツン!(スンに近い乾いた音だ)弾の音、的は恋人のハートだろうね。決勝戦で
10人出ていたが、あまりに美しくて、10人とも好きになった(笑)。
エアー・ピストルはエアー・ラブだった。ファンになりそうな、競技だ。
美しさは、真剣さだね。それが、わかったよ。

その後TVで見た、赤塚不二夫の葬儀で弔辞を読む、タモリもなんだかひどく胸に迫った。飾りのない言葉なのに、とてもよかった。そして、タモリが手にしていた紙がじつは「白紙」だったと知って完敗だった。。。人に届かなくなった詩が忘れたものとはきっと、この白紙の

白さだ。


*ところで、バレーどっちが勝ったのかな。ききたいような
たくないような・・・・・・(^_^;

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by sechanco | 2008-08-10 12:08 | ミヤオ・リターンズ

プレイボーイは詩を抱いて逝くと日本で一番美しいランボーと

a0082132_10585265.jpg「はい、お土産」と言って連れが昨日買ってきてくれた『PLAY BOY』誌。いっせいをふうびした。<高級洋モノ>ヌードグラビア雑誌がついに終刊になるらしい――近所じゃもちきりの噂とか。

特集はなんと「詩」だ・・・。『詩は世界を裸にする』と題されて、池澤夏樹らの選で海外・国内の有名詩人たちの作品が採り上げられている。

ああ、プレイボーイは最後に詩人を抱いたのか・・・と感慨深くながめた。いや、詩ともろともに没するという時代の象徴だろうかとかもね。でも、後ろにNEXTと次号予告がある。どうやら終刊になるのは、11月発売の1月号らしい。さすがPLAY BOY まだまだ、抱くつもりなのね(あはは)。

まだ、ぱらぱらめくったぐらいだけれど。写真は、咥えタバコする詩人ジャック・プレヴェールの肩に子どもが甘えるように頭をのせる画家ピカソの一枚が面白い。(よく見ていると関係が逆転するような・・・?ふかいしゃしんだ)

そして、詩は。サバ。ウンベルト・サバの『少年』(須賀敦子訳)が
わたしにはだんとつ◎。

「野原のきみは、まるで、地上に流されてきた
神だ。きみにうっとりする人間を、目を
伏せないで、誇らしげに見返す、」
                        (一部)

そして、寺山修二の『ロング・グッドバイ』の

「血があつい鉄道ならば
走りぬけていく汽車はいつか心臓を通るだろう」

のはじまりのフレーズに鳥肌した。すごいなあ。でも、寺山さんって中也といっしょで
めちゃくちゃいいなと思ったフレーズは結構他人のパクリ(!)だったりするからなあ(笑)
ゆだんのならない魅力のあるひとだ。

それと、金子光晴『愛情69』

「 僕の指先がひろひあげたのは
地面のうへの
 まがりくねった一本の川筋。

 外輪蒸気船が遡る
ミシシッピイのように」

なにがミシシッピイだよとわらっちゃうやうな、エロ親爺のほんとにヤラシイ
エロ詩だけれど。。。果ての果てまでこんなに命を光らせることのできる
他の人を知らない。詩の品格がちがう。

あとは、まだあまり読んでないですが、川口晴美さんがアルチュール・ランボーの『永遠』をとりあげていてうれしかった。金子光晴訳だったけど、わたしは「鈴村和成訳」が好みです。彼の翻訳が日本で一番美しい『永遠』だと思っている。スズムラカズが日本で一番美しいランボーだと――。
a0082132_114284.jpg

と、ニッポンはいつまでたっても富士山と谷川サン♪のインタヴューもあり。
盛沢山でおもろーです。

*この町では、本屋さんコンビ二と『PLAY BOY 9』号は売り切れ続出らしく。よかったね。 やっと見つけた一冊とのことです。ゆっくり読もう。うしろには金髪のヌードもいっぱいこ♪
記念にみなさんも如何?(^_^)
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by sechanco | 2008-08-08 11:18 | ミヤオ・リターンズ

しり餅と生活

風通しの良い角度から、詩やヴィジュアル・アートに取り組んでいる美術家のNさんの個展に出かけてきた。にわかな雷雨と土砂降りで来客の足がとぎれ、いつもとりまきが多いNさんと、ゆっくりお話ができてよかった。人気商業誌の編集やデザインでばりばり活躍しておられた経緯をもつ、彼の話は、現代詩畑の目線とはまったく違って、結構目からウロコな発言が多く、わたしには刺激的だった。

そんな大層で特別な場所ではなく、普段の生活のなかにもっと詩やアートを取り入れて行こうよ、普通の暮らしのセンスをよくしようよ、という働きかけをしている方だと理解している。いろいろと貴重なアドバイスも頂戴した。持っていた私の詩にも駄目出しを頂いて、詩だけに専念しようと東京へ出てきた頃の初心にもどる気がした。「良く書けているけどね、この『悲しい』が要らないな」「なぜならね、悲しいは死につながるでしょう、そういうものを人って読みたくないじゃない・・・」なるほど。

「悲しい」をとって、果たしてわたしに詩が書けるだろうかと少し不安になりながらの帰り道でふと気づいた。商業アートの分野には「死がない」ことに。いや、テレビを含め、広告やデザイン等の商業ベースの表現の世界の基本は「生の側のみ」なんだと(今頃、気づいて・・・笑)驚いた。お茶の間に「死の影」はタブーなんだ。だから、テレビの出演者たちはあんなにも笑い続けている。テレビはどこを切っても笑顔のえいえんにえがおをふりまく金太郎飴のようなメカだ。「生(せい)」だけで成り立っている世界。一滴の死の影も不吉なものとして降りてはならない世界だ。

しかし、芸術の世界だけは生のなかに死をとりこむことを許されている存在だとおもう。(どこかの表現で引き受けなければ困る。死を内包しない生なんて実際あり得ないのだもの―。)でも、Nさんの言いたいことは、<かといって「死」がやたら強められ過ぎてるんじゃたまらないよ、もっと「生」の側、生きている姿の愛おしさ素晴らしさを書いてよ>・・・ということであり、彼のアートワークのさまざまなアプローチなのだと思う。分離して住み分けようとする二極(商業アートと芸術、生と死、日常と非日常・・・etc.)の良いとこ同士をバランスよくつなげて、ライフスタイルの質をあげていこうよという。それは、とても賛成だ。そして愉しい事だ。結局、久高島の祭祀とともに暮らす女性たちも、地面に畑のようにカンバスを置いて絵を描くエミリーも、その二極を自然と融合させて生きている人々だ。ふたつじゃないひとつだよと。

ライフスタイル。しかし、「生活を書いてよ」と言われたとき、はたとわたしは困った。
ああ、こんなことを言ったらどんな礫が飛んできて、どんな罰があたるかわからなくて恐ろしいけれど、ほんとうのことだからしかたがないので、せきららに言うが・・・「わたしは、生活に関心がないのです。」どうしよう・・・。すみませんとしかいいようがない。

玄関を開けて指を一本外に出し、その指を引っ込めて終わりにしても
いいぐらいなのだ、一日の生活は。自分の実生活は、である。

だから、今日何をしたかを書く気にあまりならない。自分のしたことと
自分のかきたいことは関係ないようなのだ。

ただ、他の人の働いている姿、生活や暮らしぶりを眺めるのは大好きである、そして感じたことを、言葉にすることに喜びを感じる。・・・子供のころ泊まりに行った家のおばあさんが、夜なべで梶の木の皮を裸電球の下でもくもくと剥いていた・・・そのおばあさんが皮をむきおわるまで傍で見とれ続けていて「へんな子だね・・・」と言われたことを覚えている。ただただ舞台を見るようにあざやかな手元に見とれているばかりで手伝おうとすらしない・・・あの晩のつづきの側をずっと生きているのかもしれない。へたなじぶんの暮らしぶりを描くより、ひとさまの立ち働く姿やの暮らしぶりを見てそれに自分の言葉をツタのように絡めていくことの喜びの他に興味がない。する人ではない、見る人なのか。。

見て、感じて、考えて、言葉にしたい。自分の言葉に――。そんだけ。


だから、生活っていわれたら、わたしは木っ端微塵に砕ける
じぶんがなにものかわからなくなる。

葉っぱの裏に隠れたくなる。
こと葉の裏に――
(たいした者じゃないことだけは確かだ。サイテイだと言われたことも
*回はある。。)
すいません。

*お土産にこの地の数少ない名物「しり餅」を持っていって、帰りに驟雨で濡れた
原宿駅前の歩道ですべって又見事な「尻もち」をついてしまって、泣きたかった。
(去年から履きっぱで裏がツルツルのCROCSそろそろ捨てなきゃね・・・)

お尻をよごして帰りついたら、納屋のロフトでKが無心に絵を描いていて
その背中に
a0082132_10122632.jpg
思わずシャッターを押した。
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by sechanco | 2008-08-07 11:04 | ミヤオ・リターンズ