晴れときどき 宮尾節子


宮尾のブログ talk to who?               
by sechanco
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詩は きませり

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かいば おけの  なかには かみのこの ほほえみ

あい ういっし ゆあ めり くりすます
えん あい ういっし ゆあ めり くりくり

あんまり かわいくて かっちゃいました ふるどぐや さんの すみにいた
ふるい つみき みたいな ・・・ かみのこ ひつじ よき ひとびと

ご ひ や く え ー ん!

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あい ういっし ゆあ めり くりすます えん はっぴぃ ぬや。

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by sechanco | 2009-12-25 11:05 | ミヤオ・リターンズ

星の市 あります。

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           ☆画像をクリックしてごらんください。
絹織物で栄えた飯能の町の、有形文化財・店蔵『絹甚』で、さくら染めで活躍されている春田さんとわたしの短詩のコラボレーション、「染めとことばの展覧会」をすることが決まりました。これから恒例となり、みんなが集う・交流の場所になることを願って『星の市』と題して、まずはその幕開けにと企画しました。いろいろ催しものがあります。お正月からですが、お時間のある方はぜひお越しください。お待ちしております。
★棚田の写真で有名な青柳健二さんの写真も2階に展示されます。☆7日には彼のスライドショー(有料)も予定しています。(チラシには詳細が触れられなかったことをお詫びします。)

こちらが★絹甚です。
とても風情のある贅を尽くした蔵作りの建物です。

★「星の市(ほしのいち)」とは、飯能市をモデルにした三島由紀夫の小説『美しい星』にちなんでつけました。明るい市になるように――と。かわいいでしょう?(^^♪
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by sechanco | 2009-12-23 11:11 | ミヤオ・リターンズ

ロックンロールと現代詩

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昨日浴びた、あ、もうおとついかな。四人のイケメン詩人たちのもたらした「朗読カルテット」の熱い余韻がからだから(というか脳というか・・・)まださめない。もう少し書きたくなった。

出演の「K・N・T・Y」とテキストのそれぞれの朗読パーツに振られた頭文字を、ひとで開くと。K=岸田将幸・N=中尾太一・T=手塚敦史・Y=山嵜高裕のメンメン。

KとNの詩集出版のお披露目朗読会に、TとYが友情出演という特別朗読ユニットらしい、テキストを読むと。しかし、読むものは各人の書いた詩のパーツのパッチワークであるらしい。

『声の鋏(こえのはさみ)』というサブタイトルがついている。
それぞれの詩をカットして(ハサミを入れて)つなぎ合わせたという意味と、声で(言葉で)世界に切り込む・・・という両方のイメージを盛り込んだものだろう。

「Out of・・・」といいこれといい、電車の座席の小さな隙間におばさんがまず半分腰をかけてそっからじわじわ自分の尻の取り分を確保していくやり方と、なんだか言葉の入り方が似てるというか・・・ねえ(笑)。どっちにでも逃げられる(言葉の多義性とかいうのかな)アイマイサ・ズルサ・シタタカサが現代詩らしいなあと感心。

それはさておき。

*声の鋏は、このようにはじまりのテープを切った・・・

K=岸田将幸
「(ここにはおまえの深いところにある声を、それが深ければ深いほど喜んでくれる人たちがいる 詩はためらい切った人の声だ おまえが深い声を漏らせばもらすほど喜んでくれる人がいる 詩は広い世界ではないけれどその空は舌が抜けるほど高い――後略)」
と今暖炉の赤く燃えるこの場での聞く者・語る者の姿をあぶりだして見せるような象徴的で、しずかでうつくしい「K」の語り口から朗読は始まった。これより詩語によって非日常にはいります、という挨拶の口上にふさわしいものだった。そして、その声のやって来かたは、この山里で聞き覚えのある何かに似てみえた。が、なにかが思い出せない・・・。<その空は舌が抜けるほど高い――>にぐっときた。(舌が抜けるほど罪深いのじゃなくて・・・だ。)

N=中尾太一もまた、
「イゴール、今日僕は、僕の流儀においてだが、君に伝えることのできる比喩を、少しぐらいは持っているだろう。」と、比喩の達人らしい挨拶を始めた。最初に、呼びかけられた「イゴール」という名からして比喩は「行こう・ゴーだ」と出発の合図をあげたように耳に響いた。わたしがものを知らないだけかもしれないが・・・イゴールは「イコール」という等しく並ぶべき双子の等しからざる師弟の並ぶ姿をイメージさせたし、イゴールはアタゴオルという幻想的な漫画の世界や、イグザエルというアイドル歌手や、「イ・ゴール」異を唱える「ゴール(到着点)」(笑)・・・へとまるでネズミ花火のように、どんどん響きの変容と結ぶ像の変容をはじめて、散文で抑えられていた留め金がはずれたように、自分の中でイメージが錯乱をはじめて、ゆかいだった。この人は何かそういう、世界が落ち着いてあるための建築の基本構造を骨抜きにするような罪深い手練を持っている。彼の芯は怨歌だと、わたしは思うが。八つ当たりのようなねずみ花火が炸裂する。それが綺麗なだけに・・・こわい、おにいさんだ。

次のパートでNは
「イゴール、僕たちはこの部屋の外で生きることができなかった。僕たちはこの部屋に子供を集め、自分たちの知らない言葉を使ってようやく僕たち二人が出入りできるくらいの小さな扉に短い閂をかけた。知らない言葉を使って話しているのを聞かれることが恥ずかしかったからだ。それだからあのかわいそうな師弟の、ここからでは聞き取れない末期の会話の中に、僕たちの生きなければいけない場所、僕たちの教え子が生きなければいけない場所があったと考える可能性を、僕たちはなくしている。それだから僕たちは彼ら師弟が、自らの低くなっていく体温でゆっくりとその体を焼いていた一夜が存在した松林の外に、自分では彼らと同じだと思っている体を使徒たちのように見せびらかしにいくのだ。」とつづける。ここに現代詩という形態についても、その扱われ方・存在の仕方、そしてその存在の恥ずかしさについてもすべて言い尽くされていると思う。それを引き受けつつも、しかしほんとうの声・生きた声ははここからでしか、もう発することができないという切実さが響いてくる。「自分たちの知らない言葉を使って」・・・「自分たちだけが知ってる言葉」ではない。この<言い表し方>はひどく胸を打つ・・・「知ってる言葉」ではもはや生きられない「僕たち」の生きのびる方法が簡潔に言われているとおもう。「言えなさ」を生きねばならない詩人の姿が、語られている。そして、人が生きる場所を目指して未踏の地に踏み込むように、「自分たちの知らない言葉」へと踏み込む「ここでは生きられない」(不器用なあるいは無垢な)者の姿がはっきりと――。

しかし、だ。この人の叙情の切り口が今見えたように思った。彼の方法論が――。菊だ。菊の花は、その茎を切った数だけ挿しておけば花が咲く。一本で挿せば、ひとつしか花は咲かない。表現でたとえれば、「ある」と「ない」という単純に二分した言い方があるけれど、ときどき、「ないことはない」とか「ないことはないことはない」と、幾重にも否定を重ねて肯定にたどり着かねば気がすまない向きがある。井戸に石を投げ込んだときに、いっぱいぶつかりながら響いてくる、その否定の(?)音の数がその井戸の深さを知らせてくるように。1000の音がすれば1000の深さの井戸であり、1000に茎を切り刻めば菊は1000個の花をつける。この短い詩句の引用だけにも、その叙情の、つぎつぎとぶつかった壁から切られた口から、音開き、花開く姿がふんだんに見つかる。それは彼自身の「yes/no」の葛藤であり、「on/off」の作動であり、「許す・許さない」の繰り返しが艶を増す、やはり怨歌だと思う。彼の本質は。かいてもかいてもそこがみえない・いどのふかさが、きってもきってもまださきのこる・ちとなみだのはなが、ぜんかいになっていくかんじょうが・しかし・感情では掴めない理性を追いかけ続けている、おんながおとこをおうように――おとこはちちをおい、男性詩人は父なる思想の「大きな懐」を求める。そんな図が見えた。しかし――。

「許せないのだ」――きっと彼は。その深い感情が、しかし、花を咲かせ続けるから、その花畑から出ることはできない。でも、何からその花が咲いたかを、思うと怨めしい、その痛い切り口に触れ続けなければならない。傷から逃れることはできない。菊はそんなふうに咲いている。彼もそんなふうに、詩を咲かせているようにおもう。

彼の詩集『御世の戦示の木の下で』の終わり方もひどく胸を突かれた――それはこのように終わる。

それは、ハッタくんや、オサキくんにぼこぼこにされた後、どうしてもシャツについた<唾だけが>落ちなかったという兄の声だ――

この兄さんの目だけはのぞきこむな、象がその中にいる。
象の気球に乗って、兄弟で夢の世界を旅したかったけど、
鈍行を乗り継いで死ににいく兄さんが、人のしあわせを願う、
と言うことは出来ない。



いつかテレビで見た「砂金採り」を思い出す。北海道かどこかの川で、砂金が取れる観光地があるという。そこに行って、お金を払うとザルが渡され、川の中に入って日がな一日、川底の砂利をザルで掬いあげては、おびただしい砂利の中にほんの芥子粒ほどの金(きん)の粒がひとつぶ混ざるのをさがす。それも10回に一度混ざるか、混ざらないか、混ざらないほうが多い・・・途方もなさ。その徒労に近い砂金採りを何年も続けて、彼女の結婚指輪を作ろうとしている男性がいた。すごいなあと思った。やれやれとも(笑)。――ポエジーの粒子(というものがあるならば)を探すのも似たような作業かもしれない。でも、このNという人物の詩に出会ったとき、途方もなく砂金の採れる川に踏み込んだ気がした。ザルを突っ込んで川底をさらうと、砂粒より金の粒が多いのだ。めまいがしそうだった。。しかし、そのポエジーの輝きに陶酔しているとどうしたことだろう。。どんどんやりきれない場所にと追い詰められていく。砂利と砂金とのバランスとは、きっとそういうものだろう。「夢みたいだ」というが、虚構が自身に目覚める臨界値があるのだろうか。その豊かさは「みたいだ」をとって、逆に「夢」そのものをあらわにしてしまうような。つまり、それは、「砂利がそんなに嫌か」という・・・醒め方だ。

*****

もはや、一般人にはお手上げ状態の、専門用語化した現代詩言語は「僕たちの生きなければいけない」を守るために、死守するために、しつらえられた「フルメタル・ジャケット」のようである。その切り込む隙のない詩語の合間に「生きることができない」「恥ずかしい」「生きなければいけない」「かわいそうな」「見せびらかしにいく」・・・ひとの声が漏れる。詩人なんて魔法使いみたいな比喩使いだから、いくらでも巧いことは言える・・・でもその比喩の巧さのほうより、じつは、人に届くのは、うまくないほうの、しくじって漏れることば、ひとの言葉ではないだろうか。戦いつかれた「鉄の服」の破れから、こぼれる血のような・・・ひとのことばだ。ひととおなじひとの。Nの抒情詩は、じつはそこで成功しているように思える・・・わたしには。

現に、この朗読の会場でも降り注ぐ美しい詩語の合間に、Nの声が途中で途切れた・・・え?と思ったら彼は嗚咽を始めていた、自らの言葉にあたためられて、氷が解けるようにほどける感情があったのだと思う。

男の詩人は、思想を担わなければならないので、大変だなあ・・・と思いつつも。
どれほど堅い鉄の服を着ようと、詩の親は「怨歌」だと思った、「親方感情」だ。

そして続く慟哭。男の慟哭はうつくしいと思った。なぜみんな勝とうとするのだろう・・・
負けた男は、こんなにも美しいのに。



友情出演であっと言わせる才を発揮したYとTについても書きたかったけれど、このへんでやめます。4人揃ってすばらしい朗読でした。めちゃかっこいい<ゲンダイシンキ>でした。三角みず紀の朗読を聴く(というか見る)と、男性詩人は分が悪いなあと気の毒に思っていたが、本日かれらがそれを見事打ち破り福音をもたらしたと思います。がんばれ!

詩という酩酊空間で、「一滴の美酒も飲んではならない」とストイックな覚悟を決めていたような、司会の女性も清らかでなのに色っぽくて、よかった。


ひとりが詠み、それにもうひとりの詠みが重なり、ふいに途切れ、またいっせいにはじまりして、繰り返しくりかえし、耳と心に響いてくる詩語たちは・・・そうだ。思い出した、この里山で、聞き覚えがある似たものがある。その似たものとは、ヒグラシの声だ。夕暮れの山から物悲しく美しくひびいてくる・・・そして、夜明け前の遠い暗がりから降り注いでくる、この世のものではないようなあの「カナカナカナ・・・」のうつくしい読経のような合唱だ。寄せては途切れ、途切れては寄せるウエーブ・・・かれらは、そうだ。晩秋の里山に訪れた、美しいヒグラシ軍団のようだった。


で、最後にわたしは問いかけたい。さっき引いた、この詩集の衝撃的な終わり方とつぎのものとはどう違うのか。彼は(現代詩は)、これを(この力を)超え得ているのかと――。

母親が蒸発した家庭で起きた心中事件で、疲れた父親と一緒に高層住宅の屋上から飛び降り自殺した、幼い兄弟の兄(9才)の手帳に書き残してあった、遺言である。

「おかあさん、ぼくたちが天国から
おかあさんのことをうらむ。
おかあさんもじ国(地獄)へ行け、敏弘、正人」


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by sechanco | 2009-12-22 08:49 | ミヤオ・リターンズ

ああ 叙情

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うちの村にゲンダイシがやってきた。この前は、ドクンゴという旅芝居だったけれど――。

その名も「OUT OF POETRY READING」・・・「[朗読]の外へ」という副題がある。「Out of」にわらっちゃったけれど、その名の通り、山こえ、川こえ、茶畑こえて、はるばる行ったさきののどかで「Out of」な里山のまばらな民家のその一軒の手入れされた古民家にゲンダイシがやってきていた。

道に迷って「この辺に・・・」と畑の脇で立ち話するエプロンにモンペ姿のおばちゃんに、場所をたずねたところ。だまってすっと腕をあげ指差す先に、その建物はあった。どうもありがとう。(へんなのがまた来た・・・という里のタヌキな顔だったわ。)

この長閑で豊かな自然たっぷりのただなかで、凝縮された密室言語のような現代詩語がどう聞こえてくるか、ミーハーな愉しみがあった――。そして、ついにこんな辺境にまで吹き寄せられて来たのか、現代詩も。。という気の毒感も多少あった。

「中尾太一」という親しみやすい名前以外は、「す・べ・て」が解凍ソフトを用意されてない、圧縮言語の世界が展開するのだろう。それは詩人・司会・企画者すべてを含めてだ――と一応覚悟して訪ねた。

が。

よかった、すごくよかった。すごく、かっこよかった。


パチパチと薪の赤く燃える暖炉の前で、「K・N・T・Y」の若手現代詩人4人は、それぞれの詩を短章に分けてかわりばんこに朗読した。それぞれが別々の自分の詩を読んでいるのに「連詩」のように大きなひとつの熱い詩のうねりを形成していて、ほんとうに見事で贅沢な朗読空間ができあがっていた。

読まれるテキストも聞き手に配られていて、わたしたちはそのテキストの文字を目で追いながら、作者本人から聞こえてくる声をツー・スピーカーいやファイブ・スピーカーがセットされたオーディオ空間につつまれ、洗練された「ことばの粒(つぶ)」詩語を浴びたのだった。前には暖炉の赤い火が燃えている――みもこころもやわらかくひらく舞台設定だ。

ものすごく、きもちよかった。上質なラップを聴くようでもあった。
つぎつぎに畳み掛けるように読まれる4人の声と言葉は、姿は、ハーモニーは非常にうつくしかった。日本の*マップに比べるとはるかに実力で抜きん出てしまうコーラスグループのコーラスを浴びたようだった。

「現代詩の東方神起みたい、だ」と思った。


そして、不思議なことだが、ことばのつぶとしてあびた、それらに難解さは
微塵もなかった。全部を了解した――。

濃度の高い言葉の、たぶん字面だけを追ったら、めんどくさくて一頁目でとっくに部屋の隅へぽんと投げ捨てただろう。容易に散文脈では追えない超めんどくさい詩語の塊の、それも4人分である。

それが、すらすらと耳と目を通過することによって、どんどんこちらに入ってくる。それも、一言漏らさず。

まるで雨を浴びたように――。わたしたちが身に雨をあびるとき、それは粒でやってくる、その粒が何ゆえの何かを言い当てることはできないけれど、わたしたちは間違いなく降って来たもので身を濡らす。人も犬も草も木も等しく濡れるのだ。そして、一粒ひとつぶに打たれることによって変貌した身を、「雨に濡れた」という。

たぶん、こまかく、分析してみれば、「雨」というものなど存在しないのに。――今降ったものに濡れたのだ。「今に濡れた」姿がそこにあるのだ。「雨」や「詩」という呼び名にくくられるまえの、彼らから滲む朝露のような、詩の粒に触れて身を濡らしたのだとおもう。かれらが濡れたものと同じものにたぶん濡れたのだ。


彼らの今を、自分の今として生きることができたと思う。それは、宝だった。

仏教は無常を説く。――今目の前にあるものは、たちまち消え去る。それが、この世の常である。無常であるのに、人の欲は、永遠を願う。永遠としあわせをつなげようとする。無常である基板に永遠を置こうとするその無理・無知こそが、ひとの不幸の元、わざわいの元である。本当にしあわせになりたいなら、永遠という妄想を捨てよ。今に生きよ。今この瞬間をとらえ引き受け。「いま・ここ」に生き続けることしか、人がしあわせになる術はない。たとえばあの川。じつは「川」というものはどこにも存在しない。あるなら取り出してみせよ。「川」という架空の存在に生きるのではなく。川という名ばかりの空っぽの言葉の器の中を、つぎつぎ現われては流れ去っていく、あの清き水を生きよ。あの水が今だ。――ああ無常。これが、今のところのわたしの学びつつある仏教の解釈である。かなり悲観的な思想だなあとへこんだりもしている。めでたいわたしには正直きついときもある。

けれど、そこに、やってきたのが彼らの朗読だった。仏教で説く同じものが、
無常としてではなく、なんと「叙情」としてやった来たのだった。わたしが待っていたものは、これだと思った。


ありがとう。


ユニットを組んでCDを出せば、詩集を出すよりきっと、うんと
売れるんじゃないかと思った。

彼らは、「無だ」と批判されながらも、今という瞬間の叙情の粒を生きている。
確かにそれを、わたしは浴びた。

企画構成は稲川方人とあった、稲川さんてセンスいいのね。司会の女性の声音もよかった。

ひとが全開になれる器はもう、ロックと現代詩しかないのではないかとふと
思った。だれが見たがるかは不明だけれど――。

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by sechanco | 2009-12-20 08:49 | ミヤオ・リターンズ

冬の朗読


小さな会でふたつほど詩の朗読してきます。朗読納めかな。冬の笛の音に誘われて・・・。
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☆油蝉   宮尾節子
 
それはどこから
やってきたのだろう
 
それは誰から
聞こえたのだろう
しきりに起こす声が
庭いっぱいの
油蝉の声に変わった
 
ある夏の
幼い日のことである
昼寝の後の
まだ醒めきらぬぼんやりした頭で
母が死ぬ、
私より先に
彼女は死んでしまうと
にわかに気づいて私は戦慄し始めた
たちまちたまらくなって
起きあがり 土間の奥の
暗い台所に母を捜しあてると
「ああ 間に合った」
という安堵感とともに
夕飯の支度でネギなど刻んでいる
後ろ姿へとびついて
「死なないで」と泣いて訴えた
「ああ 生きてる 生きてるよ」
と母は唐突な願いにこたえて
思う存分彼女のあつい身体に
触わらせてくれた
そしてこの日溢れる水甕の傍で
私は心ゆくまで母の健康な生を
満喫したのである
生きている、間に合った、
そのありがたい感触がずっと
手のひらに溜められて
やはり早く死んでしまった母の
後に残された私に
今もあたたかいまま
届いている
 
しかしそれは不思議な日だった
あれはどうも普段に生きている人を
普通に触わった感じじゃなかった
幼くて結べない祈りの手が
夢をかいくぐって予感の明るみへ抜けた
その人がその事で
損なわれないうちに いちばん良い姿を
「触わらせてくれ」
「ああ 触わってくれ」と
時を遡って
 未来の悲しみから戻って来たように
時を留めて
 過去の喜びが待ってくれていたように
時空を超えて生の煌めく瞬間を
交歓し合った感触だった
感動だった
 
そしてそれは本当はたった一行で書ける
 了解だった
 
激しい油蝉の声で始まり
「手は 間に合うのだ」という
幼い啓示を握った
なぜかこの日の事件が
私にとって
いちばん詩に近い
詩を書く理由に近い
ものである  



☆羽 衣
                           宮尾節子        

手のひらに一粒の麦はないけれど
ここにあるのは風が渡るみどりの麦畑

唇にのぼる言葉はないけれど
ここにあるのは風と遊ぶ木々の歌すずしく澄んだ川の歌
籠を知らないのびやかな鳥の歌

目のまえに明日は見えてこないけれど
耕された土を持ちあげて昨日まいた種が
足もとですこやかに芽吹く朝

あなたを失ってひさしいけれど
ここの苗木畑でわたしは学んでいる
一列に横たわるヒノキの子どもたちがまず苗床から腹筋で
起きあがるところから強く生きる術を学ぶように

空よ ついに羽を持てなかったわたしだけれど
汗をかいて歩いてきた道端の木の枝に羽衣をかけるように
脱いだ上着をかけて休んでいる 木蔭よ

空よ あるいはついに歩ける足を持てたので
ありがとう 脱いだ上着をかけるように枝に
羽衣をかけて

*この2つを吟じます(笑)。

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by sechanco | 2009-12-13 10:26 | ミヤオ・リターンズ

カフカなブログ

すべて日記というものに否応なく必然的に結果する誤ったパースペクティヴは、およそ注意しなければならない

しかし、なんちゅうめんどくさい言い方だろう。ようは、日記文学をうのみにしてはいけないよという注意書きとして。カフカの日記の編者マックス・ブロートはつづける

日記をつけるときには、誰しも多く、心をおさえつけらえていること、又は刺戟興奮させられているようなことばかりを書きつけるものだ。こうした日記をつけることによって、人は苦痛な、ネガティヴな諸印象から解放される。ポジティヴな印象は多くは反応を清算する必要がない」からだと。旅行記などのメモ書きを除いて――

たいてい日記は不完全な晴雨計(バロメーター)のカーヴに似ていて、『低』の、一番圧力の強い不況の時ばかりが記録されて、『高』の方は記録されないものだ。」

この法則は、カフカの日記にも妥当する…というのだ。カフカなブログにも?
ウロコとは言わないけれど。目からメガネが落ちる感じはした…。全集を編んだ人だから。カフカの事はもちろん知りつくしての人の。言葉だろう。ポジティヴな印象は反応を清算する必要がない…?なんですとっ。つまり。あっちには笑顔があって。笑えなかったものだけが。こちらに残っていると。遺っている…となると。あの救いがないほど。憂鬱で翳りがあって。神経質で神秘的で。鷹のように冷たくハンサムなフランツ・カフカ様が。大きな口をあけてがはははと。高笑いする顔が浮かんでしまいまいしたではないか。超特急で訳すと「日記→清算できなかった日々の出来事」…。

文学の親の顔を見たようで…ちょっとショックだ。だって。だったら。しあわせになれるわけがないじゃない。文学って。いっしょうけんめい幸せになろうとしている、不幸せの子。のことじゃないか…どーする?あたし。

いやいや。文学は。しあわせになりきれなかった日々の しあわせになろうとする つづきであると…信じれば しあわせになれる かな。
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しあわせをさがす犬。ときどきは掘ってまで。。。

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by sechanco | 2009-12-10 12:32

ススキ野原

枯れたススキ野原を独り歩いてきました
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白髪のピアニストの演奏は終わっていて――
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客席の鳴り止まぬ拍手の手だけがたくさん
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たくさん青空に突き刺さっていました

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by sechanco | 2009-12-07 14:17 | ミヤオ・リターンズ

詩の成分

みずと


はっぱで

できて、います。
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どうぞよろしく。
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by sechanco | 2009-12-01 13:46 | ミヤオ・リターンズ