晴れときどき 宮尾節子


宮尾のブログ talk to who?               
by sechanco
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立ち位置・立ち姿――須永紀子

a0082132_12284820.jpg「空の庭、時の径」という須永紀子さんの新詩集が刊行された。

わたしはこの方をずいぶん昔から間接的に知っていた。はじめは手作りの詩集を出されていた。日々の生活に主軸を起き、かたわらで機を織るようにコツコツと詩を紡いでおられるような、誠実な佇まいを感じていた。手作り詩集の製作年月も長かったと思う。生活を大切にされ、詩もまた手放さない。そして、自らの無理のない範囲で製作しつづけるその姿に、遠目ながら胸打たれ、わたしもがんばろうと力をもらうようだった。

数年前からか、しっかりした詩の出版社から詩集を出されるようになった。たぶん、子育てなどもろもろに一段落がついて、日常の生活の側から、詩の側に主軸を移せるようになられたのだろう。ある時は、旬の食材のおいしい調理法に頭を絞り、ある時は他者の詩を深く読み解く。日常生活と詩生活そのどちらをも疎かにせず誠意を尽くす。そしていずれの側でもきちんとした仕事をこなしていく。そんな真摯な積み重ねが、彼女の詩歴の背景にある。

詩作は感情という暴れ馬との格闘であるとわたしは思っている。しかし、それに乗らねば一歩も、前には進めない。暴れ馬は素晴らしく誘惑をする。身を任せて駆け巡りたくなる。たくさんの詩人が暴れ馬の背で疾走し、暴走し、落馬した。夢見る顔で——落馬した。

しかし、その落馬もまた此岸(日常の側)の判断であり、じつは詩人のあるべき本体は、無事彼岸(非日常の側)に渡り得たのかもしれない。詩人として成就したのかも知れないのだ——。

暴れ馬に身を任せるしか、渡岸はふかのうだろうか——。こちらに地獄を曝して。はっきり言えば、家族を犠牲にしてだ。――わたしの常日頃の疑問はそこにあった。罪もない家族を泣かせて、己の詩業をまっとうすることにどのような意味と価値があるのか。たかが言葉の織物のためインク色の虚構のために、現実に涙や血を流して、と凡才は躓く。いったいよろこぶのはだれなんだ、と。

躓いた時点で、負けなのだ——勝負は。

たとえば舞台を支えるのは、誰だろう。スポットライトを身に浴び派手な振る舞いをする役者達だろうか。舞台を作るには地味な作業をこなすたくさんの裏方さん達が居る。この裏方が日常かもしれない。裏方が日常なら、できた舞台でやりたい放題(表現)をして観客を楽しませてくれる役者が非日常かもしれない。

今回の詩集『空の庭、時の径』で、決して短くはない時間をかけて、休まず怠らず着実に日常を仕上げ『時の経』を経て、舞台の屋台骨をしっかりとさせた暁に、舞台『空の庭』にすっくと立った須永紀子を感じました。今、彼岸に着いた彼女に拍手を贈りたいとおもいます。

詩を書きながら暮らす者は、割れたリンゴのように、ここで二つのからだを持つ者である。彼女の詩のなかで使われる「半実体」という言葉にその実感があらわれているように思える。その二つのカラダのどちらをも——どちらの側の誰をも損なわず、詩が彼岸に着く姿を見せてくれた、彼女は希少な存在です。両岸からの賛辞が届くことを願っています。

前書きが、長くなったので以下に、気に入ったフレーズを引用するに留めます。日々の暮らしという日常と日々の詩という非日常の、二つの手綱を手にどちらも疎かにせず、甘えず、真摯に己を生き抜く彼女の姿は、その懊悩すら莟から匂い立つ木花のように、凛として芳しい。

人と詩の、端正な立ち位置・立ち姿を観せてくれました。
たくさんの人に読んで欲しい。

<世界とはどこか>
——略——
もし正解というものがあるとしたら
一語ないし一つでもないだろう
<地球上の、ヒトが生きて、暮らしている場所>
——略——
午後の陽ざし、ハコヤナギ、揺れる草
世界が動画のように動きだし
そのなかを半実体になってはこばれる
動こうとする意志と身体にずれがあり
近づいてくる平野と森がある
野ネズミの速さでヒトがあらわれ
話しかける前に消えてしまう
——略——
夜が明けたらわたしは森に入っていくだろう
鳥が鳴き花は匂い羽音は近づくが
実物を目にすることはなく
ヒトの姿をとらえることもないだろう
この世界の仕組みが解けはじめる
<世界とはどこか>
——略——
ことばの要らない日々を過ごすことが
ことばを忘れることにつながってゆかないように
目に映るものを記憶するため
わたしはわたしの内部で声をあげる
ことばを組み立て筋を通し
語るべき時が来るのを待つことが
歩くことと同時になされる
              (『囲繞地にて』)

人ではなく「ヒト」というカタカナ表記に「半実体」の薄明感があらわれているようです。


古い友人たちとすれ違い
セント・ジェームス病院の一室で
生誕の日を迎える
密かにヒトの態をなし、立ちあがり
遅い祝福がとどいた朝
生まれたままの魂と
記憶を持つことのない人々が住む
辺境をめざして
新しい影が
足を踏み出す
             (『旧市街3』より)


『旧市街』の連作が特に美しい。「旧」とあるが、新世界、彼岸の景色のように視えてしまうのはどうしてだろう。


二月の庭
落下するガラスと靴
ときどき靴の片方が
上空で消息を絶ち
その一瞬を目撃する
オーチャードグラス
             (『遠い庭』より)


思念が結晶化して華になったようで見とれる程美しいフレーズ。落下するガラスと靴は、立ち並ぶ「詩の行」に視えてくる。上空で消息を絶つ靴とは、まさに、頁の上空で途切れた「黒い詩の文字列」のことであり、その下の余白がガラス——。いや、下の余白部分もまた、日常に置き忘れた非日常のガラスの靴か!

かたくなな野に在って
草を刈り土を掘りおこす日々
土地のことばを知らないわたしは
問われることがあれば母音を発し
了解とも拒否とも受けとられることを知ったが
身体の変化を歓びもした
歓びは<ア>あるいは<オ>の長音となって
閉ざされた野を渡り
老いた男の耳にとどく
野に生まれ育った男には
<ア> も<オ>も<ことば>であったので
わたしの発する音はこの後
男の貧しい語彙で解されることになった

触れれば焼けるような痛み
容赦ない刺
かたくなな野の果て
緑の萌える原には
善良な草が生えているのだという
眼前の風景が変わるまで
わたしは刈ることを止めない

              (『刺草の夜』より)


この詩集のなかで、いちばん好きな詩だ。この詩集の骨頂だとわたしには思える。「<ア>も<オ>も<ことば>であったので」という貧しくもおおらかな男のそばで暮らす。かたくなな野にはびこる言葉の刺草を刈りとりながら、「三千の夜を過ぎて」——全身を細かな刺におおわれて「たどりつく地は」——最終連も素晴らしい。

鳴らない鍵盤を持つピアノと
Cではじまる作曲家の楽譜
<ゆっくり><激しく>
先生の書き込んだ文字が
半世紀を経てなお
鋭い声を放つ

            (『伝言』より)


一つを生きたくてもう一つを捨てる生き方と、一つを生きたくてもう一つをも引き受ける生き方。この世で、詩という業を生きねばならぬ種族に二つの方法があるならば、須永さんは遅刻を承知で、後者を採った。それが彼女の愛だとおもう。その制御の利いた愛こそが、じつは大きく今日まで続いた詩の屋台骨を支えているのだと私は信じたい。ここで地獄を掘るだけが詩の道ではない、この煉獄を潜るうちにも詩の華は咲いてみせるのだと——そして愛が舞台に間に合わない訳がないと。

<ゆっくり><激しく>恩師の声がまさに、ここに結実した詩集だと思います。
読ませてくれてありがとう。

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by sechanco | 2010-04-27 10:30 | ミヤオ・リターンズ

ワオラニ族とペケの歌

a0082132_9452625.jpg
「うるるん」で「面白いのをやっていたから」と知り合いが録画ビデオを持ってきてくれた。「興味があるのじゃないかと思って」と――

赤道直下のエクアドル共和国のアマゾン川上流に生きる「ワオラニ族」の部落に、若いアイドル系の男の子が滞在したビデオだ。

「ワオラニ族のひとびとは、思ったことや感情をすぐ歌にしてうたう即興詩人たち」――なのだという。ほんとに、そうだった。けれど、歌は「あら うれしいな うれしいな」(君がやって来て)とか「まあ おいしいね おいしいね」(獲物が料理できて)みたいな単純素朴な鼻歌みたいなものだ。思いに節をつけるだけで、即興詩人というかね――とちょっと思わないでもなかったが。

ただ、非常に興味深かったことはそのアイドル君(歌手でもある?)に、ワオラニの人が「今の気持を歌にして聞かせて」と頼んだとき、彼が非常に困っていたこと。脂汗をながしながら困っていた。「いまのじぶんのきもちをうたえ」――「じぶんの言葉で」たったそれだけの頼みがきけない。彼はくるしむ。さらに、せまられて、今日本で流行っている歌を歌ってみる。ワオラニたちはしーんとして傾聴する、にほんのわかもののはやりうたを。そして聞き終えてひとこと、「あなたの気持がつたわってこない」ともらす。

アマゾンのジャングルの中で歌う日本の流行歌は・・・なんだかほんとにしらじらしかった。夢を歌っているはずの歌自身が、自らの人工の夢を覚ましていくようなぞっとするうすら怖さがあった。彼は「歌わされていた、作られたヒトの歌を」――その正体があばかれているような場面だった。

「じぶんの歌を、じぶんの言葉で」――ワオラニ族の日常にあるその自然が、彼には出てこなかった。どんなに探しても「音源の自分」が見つからなかったのである。自分があればアイドルなど、きっと出来ないのだろう。ワオラニ族ではなく、逆に日本族の今が見える番組になっていた。ワオラニよりわたしは、彼にくぎづけになって観た。

「ウルルン」のさいごの見せ場のお別れシーンで。やっと彼は「自分の歌が歌えるか」とナレーションがはいり、かれが歌ったのは、泣きながら「感謝~感謝~」の連呼。ワオラニの女性は「つたわった」と答えたけれど・・・・・・その眼差しには少し同情の色が混ざってみえた。「ありがとう~」でいいのに、とおもった。「ひああせかいた あせかいた いやたいへんだったぜ でも たのしかったよ わすれないよ わすれないよ ありがとう~」とかまんまでさ(笑)

かれにはあ、じぶんのうたがあなかった・・・・・・(下条アトム風)

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by sechanco | 2010-04-19 10:20 | ミヤオ・リターンズ

街路樹なにした 葉っぱを落とした

a0082132_9573639.jpgケヤキの芽吹きが美しいころなのに、最近あちこちで無残な街路樹をみる。こんな姿にするのなら「植えなければいい!」とおもう。
そりゃあ、秋には葉っぱがこっぴどく降る。トイにも詰まるだろう――だけど、葉っぱが散るのは年にたった一回だ。その一回のほかの一年中を「芽吹きの爽やかさ」「新緑の清清しさ」「涼しい木陰」「紅葉の明るさ・美しさ」「舞い落ちる葉っぱ」「冬の裸樹のもの悲しさ」――さまざまに移り変わる四季の姿を、道行くひとに見せてくれるのに、くれたのに。人とともに生きる樹の姿を。これはいったい何。てもあしもくびももがれたようなまるで「トルソー」生きたままの「電信柱」――まさか、民主党の「事業仕分け」で手間をカットされ、枝落としをされたんじゃああるまいね。

なんのために、街路樹があるか。考えてみてほしい。こんな姿にするのなら「植えなければいい」。なんどもいうけど、葉っぱが落ちるのは年に一度だ。「おそうじしてね」と、樹がたのみごとをするのは、年に一度なのに。無念な姿です。木が何をしたというのだろう(来たくもないところに連れて来られて・・・だ)。処刑場をあるいているような気分になります。

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by sechanco | 2010-04-18 10:14 | ミヤオ・リターンズ

しく せつ がん

a0082132_9502783.jpg

合掌。

ps.ミス直しついでに、少し修正。(4/17)

*仏道に目ざめ、さとりを得ようと努力する者を「菩薩(ぼさつ)」と呼びます。
 「四弘誓願」 菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願です。

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by sechanco | 2010-04-16 09:59 | ミヤオ・リターンズ

きっと すくいます。

a0082132_23495962.jpg早朝座禅もはや六年が経ちました。間に軽いストレッチを入れて、40分・40分の合計80分。Y師の指導の元に座ります。終わると、四種類のお経と和讃を唱えます。四弘誓願は四度繰り返します。それからお茶とお菓子をいただき語り合う幸せタイムです。――ときどき川原の藪でキジが鳴いたり、近所の家が雨戸を開ける音が響きます。日の出るちょっと前がぐっと冷え込みます。これからは、ウグイスが楽しみ(笑)です。最初はちょっと苦でしたが、今は座ることが自然に思えるようになりました。自分に座るのも、ソファに座るのも変わらなく思うようになりました。何より「座ってていいよ」という、自分の居場所を与えられた安心感があります。すっとして、座禅はミントな後味です。

四弘誓願( しぐせいがん――菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願)

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

四弘誓願(伊藤比呂美・訳)

ひとびとはかぎりなくいます。
きっとすくいます。
ぼんのうはつきません。
きっとなくします。
おしえはまだまだあります。
きっとまなびます。
さとりはかならずあそこにあります。
きっとなしとげます。

              ――読み解き「般若心経」 伊藤比呂美より


きっとすくいます――涙が出ました。
「四弘誓願」すばらしい訳です。

きっとあなたを、すくいます。――こう言ってあげられたら、どれほど素敵だろう。
おそれいりました。

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by sechanco | 2010-04-16 00:19 | ミヤオ・リターンズ

いえなさ できなさ

a0082132_112476.jpg詩は「言えなさ」から生まれた、いえなき子だと書いたしそう思っている。言えなさがせき止めたダムから、ふつふつとことばが発酵して生まれる論理の変容態――ちょっとしたあるこほる(言葉酒)。

いま、それに「出来なさ(できなさ)」を加えたいとおもう。わたしはいつか、わたしの般若心経を書きたい(訳したい)と思っていた。でも、先日築地市場の本屋で某詩人が彼女訳の「般若心経」を出しているのを見た。詩人としてあっぱれな生き方をしている人だ。後ろに地獄を掘りながらでも、詩の道を突き進む人だ。それこそが、本物の詩人かもしれない。年々、詩も艶と凄みを増している。見事なエゴの華を咲かせている。

その、エゴを貫く生き方ができる人とできない人がいる。どちらが強くどちらが弱いのか、私にはわからない。多くの人ができないことを、するから強いのか。みんなができることが、できないという弱さの結果なのか。――ただ、ふつうはできない。

この「できなさ」のふつうをせき止めて、じぶんは詩を書きたいとおもう。わたしはいちど、飛びたいと思った。誘う鳥の声があまりにきれいだったから、応えてうたう私も鳥の仲間だと思えたから。そして、いちど飛びかけて、ぶざまにひっくり返った。中空には泥が舞った。そして、足元を見ておどろいた根っこが持ち上がっていたのだ。じぶんの――。


その時、じぶんは樹なのだと知った(鳥かごの鳥なぞではなかった)。羽根と葉っぱは似ていた。樹は枝に鳥をやすませることはできても、ともに飛ぶことはできない。おのれの「できなさ」を知った。そのときも。

わたしはこの「できなさ」を詩に書いて生きるだろう・・・鳥にあこがれる樹のうたを。根っこでしっかり地獄の蓋をして――。

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by sechanco | 2010-04-15 11:08 | ミヤオ・リターンズ

月のおまわりさん

a0082132_9443631.jpg月島では、月が働いていました――みょうに感激した『月島機械』・・・以前、機を織る友達と暮らしたことがありました。機とかいて「はた」と読む、そのことばの開き方に金属ではなく手のにおいがして不思議でした。「とんからり」とやわらかい音がしていた「はた」も「き」に変わると「がっちゃんこ」という金属音に変わり。仕事も文字も、文化から文明へとかわるその姿をかいま見るようでした。「機」という「漢字」は、複雑な「はたおり機」の前に座る友達の姿にも似ていて(笑)。

『月島機械』金属関係の会社でしょうが。なんだか建物のなかは、立ち並ぶ機械の間を縦横に光をはりめぐらしながら、月光が忙しく立ち働いているようで、なんぼかあかるいだろうね――と想像するだけでくらくらしてしまいました。

ゆうがたには、おでこに茶色い機械油なんかちょこっとつけて、頬っぺたなんかもこころもちへこんだ、お疲れさんなお月さんが空に帰って行くのでしょう。

となりの交番では、月のおまわりさんも立ち働いておりました。


月の働く、月の島。
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by sechanco | 2010-04-14 09:51 | ミヤオ・リターンズ

月島なう

a0082132_93419.jpg浜離宮のホールへ、知り合いのピアノコンサートを聴きに行った。素晴らしいシューベルトの遺作を聴いた。「エモーションではなく、パッションを弾きたい」が彼女の持論だが、激しいうねりを見事に砕き散らすパッションが聴けた。ときどき持ち上げて、宙に止める彼女の白い指先たちが、寄せてきては空中でいちどためらう波頭のようで悩ましくうつくしかった。それらは、音の波ではなく、潔い音の粒だった。フィンランドの作曲家のパルムグレンの作品は彼女の弾く詩だと感じた。これほど花吹雪をあびるように、ピアノの音の粒を心地よく身にあびたのは、はじめてかもしれない。すごくよかった。

終わってから、地下鉄で二つ先の月島に行ってみた。風が強くて、隅田川沿いの桜並木は、桜吹雪が舞っていた。はじめてという義母といっしょに「もんじゃ」を食べた。「野菜で土手を作って・・・液?が流れなくなったら突き崩します」とていねいな実況つきで「ショウガねぎに生いかもんじゃ」を店のお兄さんに焼いてもらった。おいしかった。

「夢の島」はゴミの島だときいて昔とてもびっくりしたが、それに「月島(つきしま)」「清澄白河(きよすみしらかわ)」――東京は下町にいけばいくほど地名(駅名)が澄んできれいになるようなのはなぜなのだろう。「隅田川(すみだがわ)」しかり、だけどなんとなく、清濁あわせ澄んだ気もするかな?そういえば、昔友達に「銀座に連れて来て『で、金座はどこ?』と聞いたのは――せっちゃん、あなたがはじめてよ」とわらわれたが、もしあるならば、きっと金座も下町でしょうね(笑)。

写真は、月島一丁目でであった景色。ちーしゃつやらぱんすとやらぱんつやらが、かぜにあおられやたらおげんきでした。中身はもっと元気だろう、きっと。路地も素敵だった。一目一話の路地好きにはたまらない町。

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by sechanco | 2010-04-12 09:06 | ミヤオ・リターンズ

高麗の山桜と桜盃

a0082132_10334743.jpg昨年訪れて感激した南高麗の、美麗な山桜が先日の強風で折れてしまったとのこと。「せっちゃんが、あんなに褒めてくれたので」と、折れて倒れた幹からそれでも咲き始めた桜の枝を、友達が持ってきてくれました。

あの山里を見下ろす、日当たりが良くて、心地良い丘の上に咲いていた、山桜と部屋のなかで逢えるなんて・・・残念だけれどうれしいよ。桜の詩をひとつ作りました。長い間、みんなを楽しませてくれてごくろうさん、どうもありがとう。せかいでいちばんすきな山桜。
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花を散らさず 己を散らした――
きみにささげる、さくらはい。


*「『桜の虚(うろ)』――樹齢を重ねると幹の中心は朽ちていき、
       やがて小さな虚ができる。年月を重ねるごとに
       虚の容積は増えるけれど、外側からはその大きさや形を
       知ることはできない。」
             ――たかはたけいこ『りんごと木綿の詩』エピローグより

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by sechanco | 2010-04-09 10:42 | ミヤオ・リターンズ

桜のトンネル

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昨日はぽかぽかと暖かくてとても良いお天気でした。「いまから、いこう。おいなりさん、つくった」と急なお花見のお誘いに乗って、おいなりさんにも釣られて(笑)――友達と仲間4人でお花見をしてきました。入間川沿いの、お花のトンネルでした。平日なので人も少なく・・・というか、このあたりはいつでも、少ないか。のんびりとお昼のお日様の温かいひとときをみたり・たべたり・のんだり・しゃぺったりして楽しくすごしました。河川敷の草むらに座って、花を見上げたり、水鳥の遊ぶ川面を眺めたりして、よかった。具沢山のおいなりさんもおいしかった。あぶらげの皮まで褒めたが、「皮は、生協だよせっちゃん」とのこと。あらそう。

電話口でぐづぐづいってると「せっちゃんに、みせたいんだよ!」と叱ってもらえるうちが花です、わたしも――。感謝稲荷大明神。

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ひさびさに、青空新聞の詩を――。この新聞に折り込まれる「ちら詩」のおかげで、最近は知らない方にまで「せっちゃん」と呼びかけてもらえて、ひとりあるきの?せっちゃんはびっくらしたり「よかった」と言われてうれしかったり。

詩人じゃないとか、詩じゃないとか――おしかりも頂いてますが、
なにものであれ、向かう言葉に「自己ベスト」を――
わたしの願いはそれだけです。そして「上へ」ではなく「前へ」――。

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by sechanco | 2010-04-07 14:20 | ミヤオ・リターンズ