晴れときどき 宮尾節子


宮尾のブログ talk to who?               
by sechanco
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北京の切符

a0082132_10382547.jpg柳本ジャパンが北京の切符を手に入れた。毎回、テレビの前で手に汗にぎって応援したきたものとしては嬉しい。わたくし的(こんなケイハクな言いまわしを使いすてるのが、好きなのよ♪)には高橋みゆきですが。

解説の川合さんは日本バレーの「レキシ上一番!」と褒めあげた、小さなリベロ佐野の、瞬時に床下ふかくまで両手を突っ込んで、誰も抜けない「大カブ」を下から根こそぎ持ち上げて堀りおこし、ボールに変えて投げあげるかのような、ありえない角度からの見事なレシーブ。

それを受け取って最小最強セッター竹下のトス。点につながらず落ち込んでいる者にはエールの。入れ替えで入ったばかりの者には歓迎の。誕生日の者にはハッピバスデの。だんだん調子が出てきた者にはイケイケの。長年コンビのシンにはやっぱりアンタよの。…かならず誰かに花を持たせるように、誰かを生かせるように。床すれすれで小さな体を噴水のようにくるくる回転させながらボールを手渡すそのセンス、そのチャーム、その愛!気配りのいきとどいた、見事なボール配り。その手でボールを渡してさまざまに花咲かせるメンバーたちの花束をここでしっかり束ねているのかと思わせる、あのきりっとした厳しい眼差し。ひとをいかす。ひとのためにいきれるひとはあんなひとだ、きっと。人柄にも技にも眼差しにも情にも何もかもに、キャプテンの格がある。インタヴューには一言「わたしたちには、結果しかないから」。

ああ、そして。高橋みゆき嬢。大輪の華。柳本監督とおんなじどう猛な目をしている。カメラも追いかけ切れないほどの、猛スピードできめるスパイク。アウトか得点か、いちかばちかをかけたスリリングなサーブ。ブロックする敵の指を花びらのように飛び散らすパワー。極まってきたときの手のつけられない野獣のような眼差し。もっと極まると放心したように片目がすっとほどける官能的な斜視。「なんか意味不明ですね…」と解説者のトークを困らせる、乱心したような時折の両肩落としてのフラフラ歩き(崩壊学級の問題児のようだ…と表現する人も)。入ったときのぱっと輝く大輪の笑顔。ペキンが決まった日のインタヴューなんかもう喜びでぐにゃぐにゃで。蕩けるほどラブリーだった。。。ああ、高橋のことなら明日まで語っていられる。そして、バレーが終わる度にかなしくなる。もう、彼女に会えなくなることが……。

荒木もがんばった。エース栗原めぐみももの凄い活躍だけど(目がよくなったね)。。味がね。にんげんのあじがまだたりない。試合よりもどちらかというと人間をウオッチングする。わたしにいわせれば。

ひとのかんばせは年期がつくるものかも。
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# by sechanco | 2008-05-24 10:52 | ミヤオ・リターンズ

師匠の愛

a0082132_93097.jpg
書に惚れ込んで、ときどき手ほどきを受けたりしている山田麻子師匠の「あい」である。和紙作家と書家の彼女とわたしで以前コラボ展をするために、「あさちゃんあいをかいて」とたのんで沢山の漢字やひらがなの愛をかいてもらったうちの、ひとつ。いちばん気に入っている愛。

かんけいないけど。「スランプ」という言葉をきのう思い出して、ふるい友達にあったようになつかしかった。や、ひさしぶり。「Dr.スランプ」って漫画もあったな。いまは、ぜんぶ飛び越えて、「ウツ」だ。ないたりへこんだりおこったりやつあたったり…もっと人間にはジュースが出たはずだ。ジュースは血じゃない。なにかあれば、すぐウツ(鬱)という言葉が人のジュースをとめてるようで。ひとにひとのあじがなくなっていくようで。なんだかさびしい。ひとむかし前のスランプのように、脱出できる言葉はないものか…とおもう。

「春」という「時のコトバ」でくくれば「夏」という次の時が訪れる。時のコトバにはつぎの時の見とおしがつく。時のコトバは新しい頁がめくれる。けれど、それを「季節」という言葉でつかむと「春」は二度とそこから逃れることはできない…コトバにはそういう罠がある。ことばひとつで、ひとを救いも陥れもする。なら。出口のあるコトバを探したいとおもう。コトバだけでも。一歩間違わなくてもペテン師だと自覚して。入り口ではなく、出口に立てれば…とおもう。

師匠の愛を見ながらそんなことを。
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# by sechanco | 2008-05-22 09:35 | ミヤオ・リターンズ

歌舞伎とドリフとやなぎもと

a0082132_0223070.jpgうまれて初めての歌舞伎観劇をしてきた。ああいう優等生っぽい世界には、ちょい(うんと?)悪庶民の手前どもには別世界かと思ってましたが。めちゃくちゃ楽しかった。優等生どころか、飲んだり食ったりふかしたり(喫煙通路は煙がもうもう)声は上がるし笑いはでるし、超俗で下町な世界にびっくりこ。

演目は、でいいのかな。『青砥稿花紅彩画』あおとぞうしはなのにしきえ、と読む(どうしてそう読めるのか…理不尽な程・笑)。なんのことはない、わたしでも知ってる『白波五人男』のおはなしでした。永谷園のお茶漬け柄の幕(わはは)が開くなり。満開の桜花に、ずらっと並んだ「大奥」の世界のような女子衆に、日本人形のようなお姫さま。その舞台のきらびやかなこと衣装のあでやかなこと。それに太鼓や拍子木が気持ちを煽る。

パンフレットにずらっと並んだ、難解でしかつめらしい漢字の世界が、ぱっとひっくりかえって全部お花畑にかわったような嬉しい展開に、からだに勝手によろこびが疾る。このハデさは何なんだろう。役者さんが「みえ」を切るたびごとに、後方の客から「高島屋!」「よろずや!」「音羽屋!」…などの小気味のいい「合の手」がはいる。

この合の手が、夏のヒグラシのシャワーのように耳に聴きここちのよいこと。それがまたウグイスの谷渡りように、声のグラデーションを競い合う。「よろず…」とひとりが言いかけると、別の場所から重ねるように「いよろず…や」とひくく続け、また別のところから「…よろずや!」と高くかぶせ、幾層にもみごとにシンクロしあって(プロだ)声が湧き、舞台をさらに盛り上げる。昔行った、神田の『薮そば』の店員さんたちのかけ声「ざる一丁」の響き渡りがたしかこんな感じだったな…。

ストーリーは「なんでこんなやつに」(笑)みたいな今時考えられない定番の安易な運びだが、なんだかそれがほっとする。シンプルな筋。ユングのいう『元型』(ひとの心の拠り所となるお伽噺の型といえばよいか…)の日本版をみんなでたどっている安心感・連帯感のようなものがある。「歌舞伎って。なんでこんなに面白いの!?」と、訳ありの切符がとびきり安く入ったからと今回誘ってくれた、その友達に訊いたら。

「ド・リ・フ」と言った。「ドリフターズのどたばたにそっくりでしょ。というより、ドリフがしっかり歌舞伎を踏まえたお芝居なんじゃないのかな」なっるほど。

解説のヘッドフォンを借りた方がいいことや。1600円でも返りにデポジットで1000円戻るから。お弁当は近場で買って持っていったほうが、中で買うより安あ
がりなことや。通訳の仕事をしている彼女から、ガイジンサン(シジンサン?)のようにいろいろアドバイスやたのしむコツを教えてもらって、おかげで10倍たのしめて。わたしの初歌舞伎体験はたいへん幸運なものとあいなりました。ありがとうお友だち。

歌舞伎にハマって安い席に毎日通うひともいるわけが納得できました。飲んで食べて休んでふかして泣いて笑って楽しんで。鳴り物入りで舞台は豪華絢爛衣装もあでやか。おはなしもドタバタや斬ったはったやお涙頂戴や。緩急まじえて分りやすく飽きさせずなのに何とものどかで。時々ひいきの役者に合の手も掛けられて…なんとえんえん4時間!も異空間をたのしめるなんて。下手な日帰り旅行よりずっと中身が濃いわ。しまったね。もっと早く知りたかった。

ああたのしかったわと。帰ったら帰ったで、ビデオに録画した「柳本ジャパン」日本女子バレーの観戦があるのでした。あら、高橋みゆきが茶髪だわ。茶々チャ。

日本がたのしい。

*写真は友だちの仙台みやげで駄菓子の老舗…yo石橋屋!!

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# by sechanco | 2008-05-21 10:31 | ミヤオ・リターンズ

緑の木陰と奥行きと

a0082132_43782.jpgいつも散歩する川沿いの小径。今は緑の木陰におおわれて歩くと気持ちがいい。

朝は東の方からまるい太陽がのぼってきて、夕方は西の山にまるいまんまでしずむ。左の丸が右に移って一日が終わる。球の移動。ピンポンの試合を観てるような。そんなシンプルで分りやすい日々が過ぎて行く。朝日はピンク色に東の空を染めあげ、夕日はオレンジに西の空を染め終える。毎日の事なのにそのうつくしさにしばしば見とれて我を忘れる。朝は河原の薮でケーンケーンと雉子が鳴き。夜は神社の古木の洞でホウホウと梟が鳴く。星のまたたきに、川の瀬の音。ふうっとおおきな息継ぎを自然にしてる時——ものいわぬものたちにいやされているのがわかる。なにもないことがしあわせなことだと。そして、しあわせなことにも気付かないことがじつはいちばんの。

地元の文芸誌の詩の選者をやらせてもらっているが、もう一人は町田多可次さんという先輩の詩人。かつては、この地の有名詩人『蔵原伸二郎』に師事しておられたそう。一事をながくやっておられる方には、学ぶ事が多い。たとえば、ことばの奥行きを学ぶ。
選評を書く時も、わたしは詩に直に付く。でも、町田さんの評はその時はなんとなく詩にぼやっとした距離があるように思えるが(すいません)、本になったとき「あっ」と驚く。ぴたっと照準があっているのだ、本になったときの距離に。たとえば、陶芸の下絵が釜から出された時に、はじめて生きる書き方だ。火を入れる前の下絵のときに気張り過ぎると、『釜出し時』の仕上がりがくどくなる。わたしがその愚をやってしまう。

その時みなまで言ってしまわない。でも、あとでじわっと芯にとどく。消し炭に火が点くように。ニクイ。ことばの奥行きとはそういうことだ。この奥行きに向かえるなら、年を取るのがたのしみになる。まだまだ自分の青さを感じるこの身が、なさけないやらうれしいやら?うふふ。
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# by sechanco | 2008-05-18 05:44 | ミヤオ・リターンズ

エビチャンと蛇の目ミシン

a0082132_11195886.jpg『解剖台のうえでのミシンとコウモリ傘の偶然の出合い』がシュルレアリスムを代表することばと聞いたとき。わたしはなんだかソレ聞き覚えがあるなとおさなごころ(笑)に思って「あ」と思いついたのが『エビタイ』だった。でも、「海老で鯛」ではやっぱり地味で。ミシンとコウモリ傘ほどの世界をまたにかける派手な跳躍力にくらぶると、飛距離がずいぶん落ちるなあとのふまんもあった。ひろい世界とせまい台所の差。あっちが解剖台ならこっちはまな板だし…。

そこへあらわれた救世主が『エビチャン』だった。にほんじゅうのみんなが潜在的にもとめているだいすきなLuck『海老・鯛』を。シュールにリメイクしてきっちりメイクしてうんと美人にしあげて登場したのがアイドル『えびちゃん』ではなかろうか。「エビチャン・エビチャン」と呼ぶたびにちゃりんちゃりん(仮音)と、「エビタイ」がどこかで叶うみたいなおめでたい達成感がありはしないか。エビチャンは。それもあの素晴らしい笑顔つきで。海老鯛が。日本でブレイクするわけだとおもう。ミシンよりもコウモリ傘よりもにほんじん好みの、もとをたどれば故郷はエビタイのえびちゃん。

でも。えびちゃんと八代亜紀の顔がときどきかぶる(広末涼子と故・影山民夫サンだってぇ…)わたしはもともとシュールなタイプだろうか。ミシンとコウモリ傘が出合った頃の解剖台のアタマみたく。。

*シュルレアリスムは、オートマティスムによる二つのイメージの偶然の出会いという解釈が一般的だったけれど、さいきんは、こちらのほうがよりイメージが的確だということで『デペイズマン Depaysement』(故郷から追放すること、本来あるべきところから別のところへ移すこと、それにより異和を生じさせることの意。)で解釈されているらしい。ふむふむ。海老鯛からえびちゃんに移ったごとくじゃないかしらね。

嗚呼「故郷追放」。このタームになんだか泣けそうになるのは。山を越えて出て来きましたよの、わたしが田舎者だからだろうか…。つきあいもながくなりました。

では、さよなら。。。としようとゆうべおふとんにはいってからのこと。なんだかもう一つ忘れていることがあるなと妙に心にあたるものがあり、目が冴えた。で。もいちど「コウモリ傘とミシンの出合い」をおもい浮かべた。昔「エビタイ」よりももっと身近にたいけんしたシュールがあった。目に覚えがあり。身に覚えがある。ぜったいある。ぜったい。あった。あ。『蛇の目ミシンだ!』

わたしは、ロートレアモン(だったよね)のこのコトバに出合った時。おさなごころの故郷にあった。普通の家庭にふつうにあった。母が踏んでた『蛇の目ミシン』のロゴを思い出したのでした。でもほんとはそれがおもいだせなかったそのことをいまおもいだした。蛇の目(傘)とミシンはとっくに出合っていて。シュルレアリスムってかあさんが夜なべする足で踏んでたレアリスムなんだってことを。。。。おしまい。

*うれしいオマケ付き。
くりっく!→★蛇の目ミシン詳細?
実は、昭和10年に自社ブランドに「蛇の目」の名を冠したとき、業界の一部からは非難の声が上がりました。しかし、小瀬與作は非難には動じませんでした。「舶来ミシン全盛の当時は、国産品に外国名を付けてごまかすものが多かったが、私はこれこそ正真正銘の国産ミシンだという誇りをもって、あえて「蛇の目」という日本名にこだわった。」と後に語っています。機敏で逞しい商魂のあらわれとも受けとれますが、それ以上に商品に対する自信と事業への強い思い入れからくる決断だったようです。ですって。。

☆「せっちゃんなにかんがえてるの?」ってよくいわれますが。こんななこと…よ。そのへんにあるのモノから想いを広げてとおいとこまで旅をするのがシュミなのよ。誰も遊んでくれない時は。いけないかしら。『バラの名前』は納屋で咲いたイングリット・バーグマン。

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# by sechanco | 2008-05-16 11:20 | ミヤオ・リターンズ

愛の巣

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☆photo : 游

「よわいヒナがまんだ残ってるなあ」。ある時。どこかのツバメの巣を見上げてお年寄りが、そうつぶやきました。みんな飛べたのになあ…かわいそうに。そういうニュアンスの会話を通りすがりに耳にしながら。「強い羽はどこへ飛んで行ったのだろう」と考えかんがえ歩いているうちに、戦闘機の羽がおもいうかび。「弱い雛の残されているところは…」とおもいうかべているときに…「愛の巣だ!」に、こころとことばが到着。ふわっとあたたかい気持ちになりました。あたたかい気持ちがないとささえられない弱い場所に住んでいるものは弱い者ではなく、わたしは気付きます。あたたかい気持ちだと。游さんの写真とコラボをさせてもらいました。

「自分のシアワセのために撮っているのものを、他の人が喜んでくれるのはうれしい」そんな風に引いて語る彼のことばの佇まいも、仄かに体温が伝わってくる彼の写真もなんだかいいのです。
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# by sechanco | 2008-05-14 11:52 | ミヤオ・リターンズ

麦わら帽子のリボンと臨床例

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『麦わら帽子のリボンは雨の排水溝』ある日。目に飛び込んできた、たった一行のこの短いフレーズの美しさに、すっかりしびれて『アンドレブルトン全集』なるものをわたしはドンと購入してしまった。「あの、むぎわらぼうしに、まちがいはないだろう」と踏んで。とてもお高かったのに。ずいぶん前のことである。買った当初は、ぱらぱらめくって「ん」失敗か?麦わら帽子を買ったほうがまだましだったんじゃなかったかしら…と。後悔しないでもなかった。まともに読めて、面白かったのは『ナジャ』だけ。あとは、ホコリをかぶって黙って本棚の番をするだけのブルトンになっていた。ブルドックのほうがまだましだったんじゃ…ぶつぶつ。

ところが、先日。やたら眠くなる風邪をひいたとき、おふとんのともにとあれこれ本をえらぶ中に、ひさしぶりにブルトンに手が伸びた。「あそびよみ」というやり方をわたしはときどきする。とくに根のつづかない風邪のときなどは。積んだ本の一冊をぱっと手にとりてきとうな場所をぱっとひらく。そこを読む。ハルキの一頁から、西鶴の頁へ、聖書の頁から、ブルトンへ。お笑いでいえば「むちゃ振り」をする。本にとってはめいわくだろうが(笑)。そこでみえるのは、ことばの肌理や奥行き。濃度。服で言えば、どんな生地でできているかが、とてもよくわかる。ストーリーは分断されるので何の意味もない。ひとかけらの断片だけの即効勝負。

そんななかで、ふたたびブルトンのすごさに唸った。そうとうかけ離れた、気の毒なほどの(笑)、むちゃ振りにもブルはたえるのだ。シュールリアリズムのさすが元祖というかなんというか。シュールレアリスムという一見狂気じみた世界のおおもとの正気に触れるおもいがした。ひとつの言葉の、一行のフレーズの濃度の高さ。しっかりと言葉がモノをグリップしている骨組みの確さに。ぎゃくにいえばこういう構造のストーリーが整っていれば、さらなるストーリーはいらない。はみだしてシュールにいかざるを得ないだろうと、わたしなんか凡人は解釈する。そこまで凝った生地で服なんか作らないでもいいじゃないか。タペストリーにしといたら?みたいに。

いやいや。いくらでも、横道にそれるので早く言いたいことをいおう。最近、文壇や詩壇、いや若い絵画の世界でも、注目されている一部の傾向について。非常にインパクトは強いけれど、一種のこころを病んだ気の毒な人の症状としか、わたしはそれらを思えない。病んだ世界を反映しているのだといえば、ああそうですかというしかないが。いいたくない。小説や詩や絵画の表すその「存在の臨場性」が、わたしにはどうしても見えてしまう「病気の臨床例」のようなもので、いいのだろうか。もし、それで、よしとするならば。病気を治そうとする本人や、支える家族、少しでもと回復を目指し治療に携わる医師などの日々の努力はいったいどうなるのだろう。芸術を着地点として、すべては報われて吉となるのだろうか。

そういう人の作品を読んである介護に携わる人が「これでよしなら。この人たちはこれから何を目標に生きればいいのかしらね」とぽつりともらした。そのことばは重い。戻るべき正気が失われるのではないか…じっさいの現場の声として、そういうことをいったのだと思う。

いや、そんなにわかヒューマニズムをわたしなどがうたいたいわけじゃない。その逆だ。文学や芸術の先端が臨床例のようなものでいいのだろうか。これは先端ではなく、それらの「さいはて」ではないのか…という疑問である。いつかタモリが物マネで筋肉を引きつらせる芸をして笑いをとっていたことがある。あの笑いの奥に潜むものはどうみても脳性麻痺の患者の姿だ。そこに垣間見えるものは、ぜったいわらえないものをわらってみたい人に潜む「最果ての闇」だ。さいていのやみだ。

麦わら帽子のリボンを雨の排水溝に見立てる…
ブルトンはさいはてではない、まともだった。

芸術はけっして技としての狂気があるのではない。どこまでも
正気であろう覚醒しようとする真摯な姿の狂気があるだけだとおもう。
危うい世界の青田刈り(…)はもうやめてほしい。だれがしあわせに
なるのだろう。。

個人的な感想だけど。ある一時は輝かしい革命児に見えたが、今は
現代詩のガン細胞だとわたしには思える荒川サンに早く立ち去ってほしい。
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# by sechanco | 2008-05-13 12:35 | ミヤオ・リターンズ

タイム・トンネル

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大きな旧いトンネルを、山の麓で見つけてフェンスを乗り越え(しーっ)入ってみました。中は真っ暗。何につかっていたのか不明。声を出すとどこまでどこまでも反響していきます。暗がりの中にわたしの亡霊が何人も隠れているみたい。じぶんの鼻先もみえない真っ暗闇をあるいていると、外と内の区別が消えていき、まるでじぶんの心のなかをあるいているような奇妙な錯覚におちいります。まあでっかい廃坑だこと。たまたまカメラを持っていた息子の友達のフミ君が撮ってくれた貴重な(笑)マイ後ろ姿です。

オランウータンに手話を教えて。そのオラちゃんの父親が死んだときのこと。「死とは何?」と訊ねたところ『くらい・あなへ・さようなら』と手話で答えたそうです。

わたしも こんなふうに くらいあなへ さよなら するのかしら
このさきは どうなってるのかなと たんけん きぶんで?

洞窟探検とか、トンネル探検とか、こどものころから
大好きでした。こわがりのくせに、ね。このときも胸
はばくばく。
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# by sechanco | 2008-05-10 00:11 | ミヤオ・リターンズ

エルメっさん

ゆだんすると。外に出るだけで幸わせになってしまうようなよいお天気です。わかばをゆらしていく風もここちよい午後。駅の前のこれまたここちよい道を、エルメス(風)のトートバッグを腰にゆらしながら、お洒落なおじ(い)さんがちょこちょこ歩いていきました。電車でどこかへおでかけだったのかな。あまりにキマってる…チャーミングな後ろ姿に。「エルメスさん」と声をかけたくなる衝動をぐっとこらえて。てんしをみおくるように、そっとみおくりました。
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# by sechanco | 2008-05-08 09:33 | ミヤオ・リターンズ

古いメモ

少し思い出したいことがあって、本棚から取り出した古い映画のパンフレットから、色あせたメモがこぼれ落ちた。

「言われてしまって、言うことのない日がある。例えば、この映画の字幕を見たときがそうだった。『僕が泣いたのは、別の理由なんだ。今、ここにいる母さんを僕は思い続ける。その椅子に座っている姿をね……泣いたのは……別の事だ……つまり、母さんはもう僕の事を考えてくれない。その椅子に母さんが座っていた頃は、遠くにいても母さんが考えてくれていると思うから生きられた。僕の支えだった。でも、亡くなってしまった母さんは、もう僕の事を思ってはくれない。母さんにとっての僕は、もう生きていないのだ』私は、この日いち日置き物のように黙った。次の日から、この件は永遠に黙った。つまり問題は解決したのである。10数年抱え続けてきた。あのときわたしは、誰の死に泣いたかという問いはここで見事に答えられていた。」……私の古いメモにはこう書いてあった。


わたしにとってのあなたは、生き続けても。あなたにとっての僕は、もう生きてはいないのだ、というひとりの死がかかえこむもうひとつの死の悲しみ。『カオス・シチリア物語』での、亡くなった母親の亡霊と息子が話すシーンである。『泣かないで、ルイジ。私を愛しているなら、今、こうしている私を覚えていて。元気な私を』という母の亡霊のなぐさめに対して、息子が告白する。

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なみだは わたしのいちぶが わたしからもぎとられた
いたみでふきだす とうめいな ち なのかもしれない
ね。
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# by sechanco | 2008-05-07 07:27 | ミヤオ・リターンズ

南から南へ

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朝5時半起床。間に軽いストレッチを入れて40分・40分の80分座る。5種類のお経を詠んで、お茶を頂いて座禅を終了。9時過ぎから、南高麗の山里巡り「お散歩マーケット」に出かける。ヒノキ林の山道を歩くこと焼きタケノコを食べることが春の(秋もある)「お散歩」のたのしみ。

薄暗いヒノキ林の中ほどを歩いていると、ときおりはらはらと、しろい桜の花びらがまい落ちてくる。見上げてもどこにも桜の木など見当たらないのに。おかしい。もういちど、ヒノキ林に目をこらすと肌合いのちがういっぽんの幹が見つかる。これだ。ヒノキに混ざっておおきな山桜の樹がある。ヒノキより高くならないとお日さまがもらえないので、高くたかくと育って、ヒノキの梢の上で咲いたのだろう。おかげでどこにも花は見えない。散るときにはじめて花をしらせるのだ。風が吹くたびに、どこからかまいおりてくる花びらたち。それは——立ち並ぶヒノキ林のたて琴が奏でる桜の調べのように幻想的だ。絵の中にはいったようなというが、歌のなかにはいりこんだようで、しばらく心奪われ、立ちすくんでしまった。ありがとうひのき。ありがとうさくら。


いろいろと、山里の幸もりだくさんのうれしいイベントだが、a0082132_940777.jpgいちばんの楽しみは、これ。「掘りたてタケノコの野焼き」今回は午前中雨だったので、軒先でこじんまりと炭焼きでした。やせいのくびすじにはをたてるような、あらあらしいかいかんがある。多少のアクがのこっている山の春が、旨い。


ゆうがた暗くなってから、「みなみりんかん」という耳にきれいな響きの町にいく。とおい町。はじめての町。はじめての店。ひとりのほかは、みなはじめての人々のなかで。ひとつ詩を読んだ。あたたかい気持ちがつたわりあってるような和む店だ。マスターの人柄だろう。よんでもらえてうれしかった。最終の電車で帰宅。12時を回っていた。

泊まりに来ていた友達と、ビデオで『バベル』を観た。「りんこさん」の演技を観たかっただけだけど。映画じたいになんとも言えぬ後味が残った。クラスター爆弾の破片がこころにささって抜けないみたいなというか。兄が撃たれた瞬間に、ライフルを持って立ち上がった幼い弟の姿がわたしの中ではクライマックスだった。せんそうのげんりゅうをみたようなさっかくにせんりつした。もう味がある、彼の演技がひかっている。

ながい一日だった。。。しをかきたい。

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# by sechanco | 2008-05-04 20:36 | ミヤオ・リターンズ

キササゲと空

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友達の家の猫がしんだ。友達の猫へのおもいを書いたブログを読んでいて、もらい泣きした。「こんなに小さくなって、これから大きくなるのだといいのにね」と、弱っていく愛猫に思いをかけ。死んでしまったあと息子さんが黒い服を着ているのを見て。でっかいほうの黒はこんなに元気なのに、ちっちゃい方の黒(クロという名の黒猫さん)はもういないんだとつぶやき、なみだする。息子も猫も、クロを象徴する黒という色のいのちでさえもが、等価にあつかわれていて、どこまでも広がっていく悲しみは、そのまま彼の愛情の奥行きの深さにとつながっていき、とても心を打たれた。

クロの所属するいっさいに泣ける。それは、クロのいたカ行の音が耳にひびいただけでも。黒という色彩を見ただけでも。よく似たやわらかな手触りに触れただけでも。かなしみはふきだす。このかなしみの伝播していくみちすじに、詩はよりそうものだと教えられる。言語の多義性だ飛躍だメタファーだのテクではない。ひとのおもいのふかさがことばのひろがりをよぶのだ。

*むかし、わたしの愛猫がしんだ時に、書いた詩である。「天然の恋」というタイトルで『妖精戦争』という詩集に入れたが、もとはこんな詩である。今、読んでみると元の詩のほうが、いい気がする。たぶん、これを書いたときと同じところにいる、Kさんとクロに捧げます。こころをこめて いのりをそえて——。

*写真は春先に河川敷で撮ったキササゲの木と空。クリックすると読み易いかとおも  います。
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# by sechanco | 2008-05-02 11:30 | ミヤオ・リターンズ

映画という名の珈琲

「どうしても連れて行きたいところが」「どうしても見せたいものが」そんな誘い文句で誘われるのが、とてもうれしい。昨日はそれで「映画館」という名の喫茶店に友達と行ってきた。かつて映画監督だった人がやってるジャズ喫茶とか。とても雰囲気がよかった。年配の男性が多く、それぞれの暮らしの服で、椅子に座ってコーヒーを飲んだり新聞読んだりしながら、普通に音楽を聴いている。ああ、ちゃんと大人な場所があるなとほっとする。ジャズ通の彼女は「ドン・チェリーをブルーノートで」とかリクエストしている。「紅茶をミルクで」みたいに自然に。

そこにあったのは、質のいい日常。とってつけたような異空間ではない。あたたかい慈悲のようにからだに入ってくる、ジャズの音源はレコードだった。「やっぱり、針やで」と友達。たしかに振動の肌に触れ方がちがう。スピーカーもでかいから、音もでかいが。飴色に変わって所狭しと置かれた物たちも素敵である。良い男というより、良いおじさんの懐に抱かれたような居心地のよさがあった。

映画館がなくなっても、映画館という喫茶店が残っている。したたかだ(笑)。それは、「ことばで語り継ぐことで、生き延びることができる」という存在への希望ではないだろうか。ここにあたたかく灯っていたのは、愛しいものをさいごまで絶やさずにいようとする、ことばの灯びでもあった。

ときどき、詩の朗読もやっているらしい。珈琲も美味しい。大人になってよかったと思える店だ。壁には古い映画のポスターが「去年マリエンバードで」「情事」と。白山にある。
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# by sechanco | 2008-05-01 10:42 | ミヤオ・リターンズ

光りのきた日

いや。この前、ふれっつ光の接続係のきれいなお姉さんが来た時の事。爪先にきれいな黄緑色のネイルアートをしていたあたりから。なにかこころがそぞろ?となったのか。

きれいなおねえさんが、いきなり、わたしのおうちの、それも「ここ」のわたしのとっときのばしょに、ずかずかとあがりこんでいらして。いつもこうして、いとしのことば
となかようくらしているこの、あたしのだいじな***を、いらいまくる(山口弁か)

親密な場所を、見知らぬ人が、蹂躙していく。でも、私の快適な暮らしを目指して、派遣されてきた人なのだ。彼女に罪はない。おちつこう。

うちに風俗がやってきた。そういう感想をもった。思わず「紅茶にしますか、珈琲にしますか」「わたしはそばにいたほうがいいですか、それともいないほうが」などと「どうぞ、おかまいなく」といわれても、構わずにはいられない、空間にあなたがきているのよ。おじょうさん。

いやちがうか。うちという、風俗的空間に(?)、ふれっつ光嬢がオフィス感覚でOLとしてやってきたのだが、夕方頃になると花粉症の薬も切れてきたのでしょう…とかで、ずいぶんグシュグシュして、マックいいですね〜とか、それやるとあたしがクビになっちゃうんですよ〜とか、本部(?)へ電話してから「わかってない…」とかボソッともらしたり、最初すましていたのにだんだん体も言葉もくずれてきてナマなひとにかわってきて、可愛かった。

ところで、風俗とは、最も親密な空間にまったく見知らぬ人をうけいれるという、とても冒険的な場所であるような気がする。

見なれた場所に見なれぬ人がやってくる。この違和感をとりこもうとする部分、とりこまれまいとする部分に、青草が荒らされたような、官能が匂い立つ。

こうして、ひかりはやってきたのだ。

*前振りがながくて、いちばん、いいたいことを忘れてしまったが。
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# by sechanco | 2008-04-30 08:26 | ミヤオ・リターンズ

ただの ひと

「Just a human!」とダライラマ14世はにこやかに自分の胸にゆびをつき立てた。
中国の一部のひとが思っているような、「悪魔ではない」ということを伝えるために。「ただのひとだよ」といった。それはそのまま「神ではない宣言」でもあった。ひどく胸を突かれた。

「わたしは神だ」といって、ひとを救おうとしたものはたくさん存在するとおもう。でも、ひとびとが神の化身だと信じる存在が、「ただのひとだよ」といって、ひとびとを救おうとした例をわたしはじめて目にした。テレビに釘付けになった。

(逆に。今、神が目の前に降りて来たような、妙な錯覚に動揺すらした。
 ——おおげさに言えばそれは、『受肉』の目撃だった。)

神ではない。ひとはひとがすくうのだ。崖っぷちに立って、かれがそれを教えた。覚醒の声だとおもう。彼の放てる北限の声だと信じる。人の側からも、言葉の側からも、もしいるとしたならば、神の側からも。「I am just a human.」それは信じるにたる、
愛の声だった。

じぶんを指して「ただのひとだ」これ以上の「目を覚ませ」はないとおもう。

そして、それ以上の悲鳴も——。
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*政治にも宗教にもかかわりなく、表現に関わる者として、かれの表現の
 核の確かさに、まっすぐ打たれた。もしも彼がペテン師であるならば、
 わたしの正気は彼のこの表現を越えられない。ここがわたしの北限だ。
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# by sechanco | 2008-04-28 09:37 | ミヤオ・リターンズ

誰だか わかる

ゆうべ電話が鳴った。a0082132_20134144.jpg
「せっちゃん」「はい」「だれかわかる?」(ききおぼえのあるイントネーションと声だ。すでにからだが思い出しているものに頭が遅れている)「ひろし?」「ひろしってだれや。ちがうよ」「あ!」「おもいだしたか?」「mちゃん!!」「そーや。なつかしいやろ」「うん。なつかしい」……ウン十年ぶりの、いとこの声である。でも、ふたりめで当てた。じぶんでもすごいなあと思う。見た目はきっとめちゃくちゃ変わっているだろうが。声はふしぎだ。昔のまんま。耳に届けられるその声だけで。あの白い歯をみせた笑顔までよみがえる。

「今ちょっと、高知に帰ってきてんねん。ほんでせっちゃんとこから、せっちゃんにかけてます。あはは」「あらまあ」「ほんまに、ちっとも顔みせへんさかいな。このこは、こら。」……だいすきなあの、「こら」もなつかしい。「たよりのないのが、元気な便りとも思てるけどな」「いっつも心の中にいるから、会いにいくの忘れてしまうのよ」「またうまいことゆーて。」……いっきに古いケーブルが繋がったみたいに話が とまらなくなって、受話器をおくのがなんだかつらかった。。また、次は何十年先に、なるのだろう。。。

実は、だいぶ前にいとこの詩を書いていた。いとこは知らない。ここでこっそり(?)それをアップしてやろうと思う。うっふっふ。きっと見ないだろう。ん。見たりして。まあ、時効ということで。かんべんしてね。mちゃん。死んだ母が大好きだったいとこである。そういうと「おばちゃんの、お墓もお参りしてきたで」と、相変わらず優しい。

More? ↓いとこ〈詩〉
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# by sechanco | 2008-04-23 20:07 | ミヤオ・リターンズ

つる爺とうわみず桜茶

a0082132_21345564.jpg「つる爺」とみんなに呼ばれて親しまれている、蔓細工職人の爺さんがいる。蔓籠用のツルを採りに山に入るので、野草や山草にとてもくわしい。この「ウワミズザクラ茶」は去年そのつる爺に習ったもの。「まあ、飲んでみなって」と花のついた、大きな枝を抱えてきて、みんなに花を飲ませてくれた。ちょうど桜がおわったころ、この辺の山のあちこちで白い子犬のシッポのような花をわっとつけてる木があるな…と思っていたのがこれだった。「犬桜」なんて勝手によんでいたわ(笑)。

花房をいくつかカップやグラスに入れて熱湯を注ぐと。それは濃厚でどきっとするほど甘ったるい香りがたちのぼる。薄い黄緑いろに染まるお茶には、ほんのり甘みもある。たぶん花の蜜をのんでるかんじだろう。みためといい、かおりといい、ちょっとなまぐさい官能的な甘みといい、たくさん飲むとなんだか、山の気に酔っぱらってしまうようだ。あ、すこし栗の花にも似てるかもね。

それ以来。せっせとこの季節はこの花木をさがすのがたのしみになっている。3本ありかを見つけている。えへへへ。教えてあげないよ。その一本を川に入って(あらヒントね)今日とって来ました。さっそく花茶をいただきました。みなさんもどうぞ。ちょっと遠いかな?w手を伸ばして見てね^^。。(甘党にはお砂糖を入れてがオススメ♪)

ひだりの、きれいな色のティーカップは、お友達の亡くなったお母さまの形見分けに頂きました。とても気に入っています。デザインもいいでしょう?narumi boneの旧いの。お母さんありがとう。
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# by sechanco | 2008-04-21 21:44 | ミヤオ・リターンズ

壁 桜

時には。そのへんの草の根っこや、ゴミなどを拾って来てはじゃぽんと墨に浸して、筆代わりにがしがし書いていく。体育会系(笑)…いや天然系か。「書道家・山田麻子」さんに月に一回書を習っている(はず…)が。なかなか行けなくて、先日半年ぶりに(すいません)出席して。「桜」を書いた。お手本がよかったのだが、ちょっと気に入っている。
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それで、思った。「あら、この手がある」と。桜がなくても、「桜」という字を書けばどこででも花見ができるなと。まあ。携帯灰皿みたいに便利だわ。なんというか、最後の最後まで、たのしめる方法をひとつ発見した思いです。うふふ。書は景色です。桜要らずの花見かな。ことばはたのし。「幸」とかも先に書いて置こうっと。しあわせになってもびくともしないように?「一等賞」「美人」とかもね(お笑)。窓ガラスには息を吹きかけゆびで「Paris」と…。はじめに字ありきよ。
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# by sechanco | 2008-04-19 12:04 | ミヤオ・リターンズ

桜ビール

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月の初めの日曜日に、近所に骨董市が開かれる神社がある。骨董市だいすき。この前の日曜日は、そばで桜祭りもやっていて賑わっていた。お花見がてら、ひとりふらりと市をのぞいてみた。桜を見てる間に、すっかり遅くなって、市の人たちはぼつぼつ店仕舞いはじめていた。いろんな品々が手際良く新聞紙にくるまれていく手元に、さくらの花びらが散りかかっている。

そのなかで、まあ。舞い落ちた花びらがグラスにつぎつぎ染まりついたような、可憐なビールグラスを見つけた。あまりにも背景にぴったりで。「きれいねえ」と近寄ると、「いっこひゃくえんにしとくよ」「ふーーん」と見とれていると「ごこでよんひゃくえんで、どう」と、かってにねだんもひらひら落ちて行く。花びらのように(笑)。。。「ください」「あいよ、わらないようにもってかえってね」「はい」

よく見ると(*クリック♪)、模様の位置がみなちがう。手描き?(まさか)でも、なんだか得したみたいで?うれしかった。ずっとながめて楽しんでいる。これで、早くビールが飲みたい。できるなら、桜色の桜ビールを飲んで。喉から胸にぱあっと散らしてみたいわ。くらいこころもよろこぶはずよ。(^^
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# by sechanco | 2008-04-12 17:41 | ミヤオ・リターンズ

あなたになら

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風邪をこじらせてしまって。寝たり起きたりをしている。その間に退屈なので本やレンタルビデオをよく見る。

『あなたになら言える秘密のこと』(イサベル・コイシェ監督と主演女優サラ・ポーリー)がとても印象に残った。観ていても、体力がなくなっているので、すぐ疲れて眠ってしまうのだが。映像や言葉がとりわけ優れていた。へんな言い方だが、やっと信頼できる人と出合えたような、とても安心感のある映画だと、とっぱなから感じた。わたしはそういう映画だと、なにも考えずに映像に身をまかす。眠りの位置について夢を見るように、画面をみる。タルコフスキーもそうだ。ときどきほんとに眠って(笑)、夢の像と映画の像が混ざり合う心地よく、ふしぎな空間の住人となっている。

事故のためしばらく盲目状態になっている、ティム・ロビンスのにじみ出るような演技が味わい深い。彼の演技、洗練された言葉のやりとりを、浜辺に座って静かな波の満ち引きを眺めるように、うっとり美しい画面に身を任せていると、物語はいつのまにか核心に着く。ぬきさしならない場所に。。それは、海底の得体の知れないどう猛な生き物に咬みつかれ逃れられなくなるような感じだ。

反戦映画…という旗印をあげなくても。このような静かな美しい映画でも、『二度と』という、hate war の杭は打ち込める。こころの奥底深くに。

戦争とはひとのこころの狂気の蓋を、凶器の蓋を取ることに他ならない。
この映画はそれをくっきりと刻印した。本来美しいはずのこころと体に。

ひとのこころとはだれにでもある、こころのことだ。

被害者しか作らないのが戦争だと思う。人間は一人しかいないのだ。
おのれの影におびえて斬り掛かり、ゆっくりとおのれを倒していく
人間の姿だとおもう。

打ち寄せる波の数だけを数え続ける男が出て来たりして、
彼は、25000回まで数えたと告げる。波とはなにか。数えるとはなにか。

あんがい、このさきこの映画で、覚えているのは、この「波男」だけかもし
れない。。。が。戦争がおきても、おきなくても、波だけは変わらず浜辺に
寄せては返しているように……。

サラ・ポーリーが冷ややかに美しい。*写真は庭先に出た可憐ないかり草。

「退屈につぶされる前に、退屈をつぶし返しに出かけるのよ」(映画より)
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# by sechanco | 2008-04-05 07:27 | ミヤオ・リターンズ