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晴れときどき 宮尾節子


宮尾のブログ talk to who?               
by sechanco
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御花畑の、ほんとうです

御花畑の、ほんとうです_a0082132_9183291.jpg秩父の「お花畑」というかわいい駅のそばに『ポエトリーカフェ武甲書店』という小さな書店カフェがある。ここで、ときどき詩人たちのトークや朗読が行われている。街に向かってではなく山に向かって、キノコを探すみたいに(笑)、詩に会いに行けるのがとてもたのしくて。ときどきお邪魔している。詩関連の書籍には気合が入っていて、店主さんたちの人柄にも、温かい清清しい筋がとおっていて心地良い空間が造られています。おすすめ。ここで、毎回、なんとぜいたくだなあという宝の時間を頂いています。店主さん、ありがとうございます。

先日は、詩人の池井昌樹さんのトークと朗読の会があった。素晴らしかった。お名前は知っていたが、詩に接するのははじめて。朗読も胸の底まで届く、深いものだった。――たとえば、中原中也のつづきが彼のなかに見出せた。かれのなかになかはらがいきついでいた。脈々とつづく詩の骨頂を生き継いでいる生身を間近にした感激を覚えました。

そして、誰かの「表現には、嘘もありでしょう?」という問いに、
「うそは、ありません・・・本当、です(わたしの書くものは)」と驚くようにこたえられて
いたのが印象にのこった。

「ほんとうです」・・・これらはみな、ほんとうのことです――詩人の声を聴いた気がした。
これこそが、詩を守る人の真の声だと思った。うそなんか、書けない・・・書けるわけが
ない。これが詩人だよ、明智君。

ちちぶはとおい、おはなばたけはまだそのさきだけれど、ひとつだけいえること
ここの店主はほんものを、しっている――応援したいお店です。

*サボテンの花が咲きました。一晩だけの命に一つづつ甘いお酒をくちうつす(笑)。

*以前詩について、話したことを載せてみます。付け焼刃の台本みたいなものなので
 荒くてお読みぐるしいかとおもいますが、詩へのわたしの思いはだいたいもりこんで
 あると思います。秋の夜長のお暇な折に、目を通してもらえば幸いです。(^_^)
以下↓。




詩のこころ
                                           宮尾節子

 得度をされてお坊さまでもある、横山さんから仏のこころ、みたいな
「詩のこころ」というありがたいようなお題を頂いて詩の話をすることになりました。朗読以外では、人前で話す事はひさしぶりです。あまり詩人として喚ばれる機会は少ないのですが、人前で話す事は嫌いじゃなくて、わたしは本当は好きです。大好き。ただ、わたしは欲張りなので人数が多ければ多いほどどんどん調子がよくなって、少人数のほうが返ってあがってしまい、しどろもどろになり、苦手です。だから、今日はきっと…お聞き苦しいかと思いますが、しばらくおつきあいください。詩ごころ、詩といって思い浮かぶことを思い浮かぶままにいくつかお話をさせてもらいます。どうぞ、よろしく。


1. 詩を作る事は、葡萄酒作りのようなもの
お日さまにあたってちょっとつまんでみて
自分にとっておいしいものを、どんどん背中のかごに
入れていく。どんどんどんどん、虫が入ったり
葉っぱが混じったりしても気にしないで

籠のなかに放り込んでしばらく放っておく。暗がりで寝かしておくと、熟成して詩に成る。ワインに。自分で酔うたための自宅用ですが、たまにうまくいくと、ひとさまにも読んでもらえるし、酔ってもらえる。ここでいいたいことは、詩は知の仕事ではないということです。むしろ酒の仕事です。だからわたしは、詩人のことを、「酒要らず」と呼んでもいいとかねがね思っています。

2.言えなさについて。
詩とはなにかと問われたら、最近は。「言えなさ」だと答えています。
ちょうどその時その場でその事を的確に言えたら詩を書いてない気がします、
言えなかったからこそ、どう言えばよいのかよかったのかと想像が始まる。
言えなさとは豊かさだと思う。わたしは、この「言えなさ」こそがすべての旅の始まりだと思います。言えなさには、仏教的に言えば分別のない世界が育っているように思われます。子供が赤ん坊から言葉をかくとくして行く時期にわたしは非常に面白い世界を垣間みました。たとえば、このように子供は言葉を獲得していきました。「でんしゃ→でてんしゃん→でてんしゃ→じてんしゃ」このように知ってるものから知らないものへと、へんてこなものを登場させながら飛び移っていく。この過程がとても面白かった。この途中のもの、両方の姿をはらんでしかしこの世に存在しないもの、まるで物の怪のようなものを、子供は言葉の獲得の中で呼び出してしまうのです。「ばす→ばっし→ぼうし」のように、バスはわかりますし、帽子も見えるでも、その途中の「ばっし」とはいったいどのような物体なのでしょうか。かつて各地で行われた成人へのイニシエーションの儀式とはこの「ばっし」の次元を出現させることではないでしょうか。そして無事に大人へと橋渡しをするための、そんなことを感じたりしました。

そして、トイレに行きたいときに「うんちが出たい」と言った。これもとても面白く興味深かったです。まず、文法が間違っている。「うんちがしたい」または「うんちが出そう」こう言えば正しい会話になるでしょう。主語の私が獲得されるから。そして、きれいなわたしきたないうんちがちゃんと分別されている。でも、「うんちが出たい」は、うんちもわたしも未分化のまま主語になってる。うんちの中にわたしがいるようで「おまえはうんちか」とつっこみたくなる。でも、「僕はうんちがしたい」とすらっと言えば、消えてしまうものなにやら温かいものが確かにここにはある。それこそ、分別のない世界があるのではないでしょうか。*同じように.この未分化の主語「いったい誰がしゃべってるのよ」「誰が主語だかはっきりいえよ」といいたくなる世界の語り口もまた詩の世界の難解さであり、豊かさなのだと信じたいです。

 そして、付け加えたいもうひとつの驚きは、「うんちが出たい」だってと言ったら「あらうちの子も、よく言うわよ」と他のお母さんがけろっと言ったこと。そして笑いながらもそれを自然に受け入れていることです。この主語の釈然としない現代詩的難解さを母なる愛情はするっと理解してしまうのです。詩を読むためには何が必要か…と聞かれたらこの母なる愛情だと言いたい。詩人は愛されなければ存在できない生き物なのでございます。(笑)

3.如何に言うか。
  そして詩は「何」ではなく「如何に」です。WhatでなくHow。「何を言うか」ではなく「如何に言うか」が詩歌の詩ごころ、歌ごころ、味のきめどころだと思う。こころの渓谷への響き方の違い。それをどう言う風に表現するかにいのちがかかっている。いかに彼氏や彼女を口説くかみたいなものです。
 アルベール・カミュの有名な『異邦人』の始まりの言葉は。「ママンが死んだ」でした、それから不条理の世界へと物語は展開するのですが。他の訳者の本を見つけたときそのセリフは「おっかちゃんが死んだ」となっていてがっくりしたことがあります。たぶん、「おっかちゃんが死んだ」で始まっていたら、わたしはカミュを読まなかった。
 そして、映画の『風と共に去りぬ』の最後のシーンでスカーレット・オハラが畑の大根を引き抜いて齧りながらでしたっけ言う、名セリフ「明日は明日の風が吹く」は実は、「Tomorrow is another day. 」「明日は違う日」」の誤訳であると、今さら言われたって困るのだ。
 確かに、こんなに気性の激しい自らの人生を強引に切り開いていく人が、なんだかなりゆきまかせのケセラセラな感じだな…とちらっと違和感をかんじたような気もするけれどそのチラ感など踏みつぶして「風と共に去りぬ=明日は明日の風が吹く」とワンセットで今さら修正がきかない存在感である。そして、美味しい方を頂いて結構真実なんかポイと捨ててしまうところのある、つまり、詩人とは真実から遠く間違いの多い人種のことでもあるのです。
 
4.わたしはうたである。
 トラヤさんや地蔵さんたちと横山さん宅で早朝の座禅に参加するようになってもう一年はとうに過ぎました。遅刻常習犯のわたしでも温かく迎えてくださるので横山さんのお人柄で続いてきました。その座禅の後で、般若心経を唱えるのでいつの間にか覚えてしまいましたが、そのお経の正体を知って少し驚きました。菩薩とはサンスクリット語のボージーサットバの響きの漢字訳であること。ここにあるのは、理ではなく響き。菩薩は姿ではなく、響きなのでした。
 そのことに、ここでもわたしは詩のあらわれでる姿を見つけたのでした。
 ねてもさめても詩でございます。やれやれ。

 耳で聞き取る響き、般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)は…音である。音訳である。意味ではなく響きである、正しくは遠くに意味をもつものを楽器のように日本語の音で響かせたものだと、知った時にちょっと衝撃を受けました。 般若はサンスクリット語ではプラジュニャー(prajna)の音訳、厳密にいうとプラジュニャーの俗語の一つとしてのパーリ語などのパンナ(panna)を漢字にうつしたものらしいです。人間が真実の生命に目覚めたときに現れる根源的な「叡智」のことらしい。波羅蜜多 (はらみた)はパーラミター(paramita)の音訳で、param(パーラム?・彼岸に)+ita(イタ・至れる)状態のことで。つまり般若波羅蜜多とは「知恵の完成」の意味となるそうです。

 子供の頃からお葬式などで耳で聞き慣れたお経(歌)を、少し大きくなって漢字で目にします。でも何やらおそろしげな漢字の羅列でさっぱり意味がわからなかったもの…それらがやっと全部つながって一つになって、何やら潜在的に抱えていた事件が解決し、心が成仏したような、感動がありました。色んな見え方をたどりながら、違う角度から入って、像を結ぶところの、この距離感がとても詩に似ていると思いました。
 もともとは、菩薩という仏教の神様の像ぐらいに思っていた存在が、横山さんに「サンスクリット語のボーディ・サットヴァ(bodhi-sattva)の音訳だよ」とさらっと言われたときはショックでした。ほとけさまが、ただの言葉にかえったからです。言葉の意味に。それは仏像がただの木材に一本の自然の木に帰って行く瞬間でもありました。おわかりのように、詩人の条件は、ものを知らない事、無知であることです。知ったときの感動がちがうんです。(笑)ボーディ・サットヴァ(bodhi-sattva)・菩薩とは「悟りを求める者」「求道者」のことだと知りました。そしてお釈迦さま(ジャータカ・Jataka 本生)の前世における呼び名であること。
 何がいいたいかといいますと、わたしがここに見ているのは「途上の姿」です。般若波羅蜜多といい、菩薩と読んでいいあらわす、こんな言い方をしていいかどうかわかりませんが、ここには本体はない。何が有るか、ここに詩があると思うのです。よくわからないといわれながら。発信が有り着信に向かう途上の姿。しっかりと受け止められて始めて成仏する。彼岸への途上の姿が詩の姿でもあると、思います。だから、詩とはなにか、詩心とはなにかととわれたら、真理にたどりつけるかも知れない、あるいはたどりつけずに道を見失うかもしれない、いまだ途上の姿・途上の歌・途上の心とわたしは答えるしかありません。途上の、橋ではなく、途上の虹のように覚つかなく夢見るものだと。


5.仏教と詩
 横山さんの書かれた「仏教思想へのいざない」や仏教や唯識のご本を読ませていただいていると「存在とは心である」「世界は心が作り出したものである」というコトバにたくさん出会います。詩もまた心が作るものですから、大変共感する部分が多いです。頭と心はどう違うのか、わたしにはよくわかりませんが。感じる・歌う…その楽器のように鳴ってしまう部分が詩ごころのありかだと思います。難しい事は苦手ですが、胸にひとつの結構よく鳴るこころだけは持って生まれてきました。これを鳴らして歌うしかわたしにすることはありません。こころのことならおまかせくださいと、いいたいです。他はよそで…と。

6.成分と言葉について
 うろ覚えですが、こんなジョークをどこかで読みました。とても優秀だけれど、親不孝ばかりしてあまり行いのよろしくない息子が勤務する生物かなんかの研究所へ、ある日彼の友達が現れて「この液体を分析してくれないか」と彼に頼んだ。しばらくして彼は「この前、君が渡してくれたあれは、H2Oに?%の塩分が混ざっただけのなんでもないただの液体だよ」と興味無さげに分析結果を伝えたそうです。それを聞いた友人は静かに「そうかい。実はあれはね、おまえのお母さんの涙なんだよ」と答えたそうです。塩分の詳しい%テージは忘れてしまいましたが、外国の笑い話だそうです。この笑い話の中にも「詩とは何か。詩ごころとは何か」が語られていると思います。水と塩分の正確な割合や成分が表示されても何も感情は湧いて来ない。ところがそれを「涙」とひとことの言葉にすると、胸からわっと湧き上がるものがある。ここにも、詩とは、表現とは、「なにをいうか」ではなく「いかにいうか」…つまり、詩とは歌であると申しましたが、もっと突き詰めれば歌ではない、厳密に言うと「楽器なのだ」とわたしは思います。
 すなわち、詩人とは歌う人ではなく、「歌う身体」なのだと。それは「What」と立ち向かうものではなく。「How」どのようにと悩み推敲しながら、どこまでも人に、人の心に、人肌に寄り添うものであると、めでたくても信じたいのです。


7.散文と詩の違い(私見)・蜜の流るる文体(メモより)
 表層の意識がしっかりとした技術(文体)をもって深層の「蜜」を汲み取りにいくのが散文(小説・随筆等)の世界とすれば。詩は、なにかのきっかけによって(感極まって)深層から溢れてしまったり、滲み出てしまった内部の蜜が、蜜の方が肉体や文体(技術)を呼びに寄せる世界といえばいいでしょうか
 つまり、前者は式が答えを捜しに出る旅であるとすれば、後者は<答えが式を>あるいは道を捜しに出る旅なのかもしれない。それでは、その<答え>とは何かを、うまく言い表すことはできませんが──柿の実が熟すごときものではないかと思います。熟せば実は落ちたくてたまらなくなる…その甘い落下の軌跡を詩というのであるような気がします。

あの赤い奴を取ろうとして何度も差し伸ばす長いものは「竹ざお」と呼んでも、けっして詩とは呼ばないと——。

8.動詞
鳴る。それがいちばん詩の動詞にぴったりくると思う。つまり本体のからっぽうのことである。上手に弾かれたい吹かれたい叩かれたいといつも待ちのぞんでいる、詩人とはでくのぼうではなく、「からっぽう」のことかもしれません。

9.詩的体験コーナー(視力回復用の3Dの本)
 詩というのは一つには見え方の発見でもあります。りんご一つでもそれぞれに見え方・感じ方が違います。人が恋をしたときいちばんに思うのは周りの景色がかわる。「普段見なれた景色がきらきら輝いて見える」とはよく言われる表現です。恋によって意識モードがチェンジしたからだと思います。景色は普段と変わってないのに、見方が変わったからです。詩を読むにも、ちょっとしたコツが要ります。恋をしたときのようなと言えばよいでしょうか。詩の世界に入った感じと入ってない感じを、どううまく言えばよいだろうと考えたときにこの本を見つけました。そして、わたしもなかなか見えないのですが、コツを覚えてこの本から「像」が立ち上がって来たとき、「これだ!」これが詩の世界であり、詩が読めたという実感と同じものだと感激しました。お試しください。日常から非日常への移行ができておまけに視力も回復するというすぐれものです。最後に詩人を体験してお帰りください。

               つたない話におつきあい頂き、今日は本当にありがとうございました。

by sechanco | 2008-09-15 08:23 | ミヤオ・リターンズ
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