「
すべて日記というものに否応なく必然的に結果する誤ったパースペクティヴは、およそ注意しなければならない」
しかし、なんちゅうめんどくさい言い方だろう。ようは、日記文学をうのみにしてはいけないよという注意書きとして。カフカの日記の編者マックス・ブロートはつづける
「
日記をつけるときには、誰しも多く、心をおさえつけらえていること、又は刺戟興奮させられているようなことばかりを書きつけるものだ。こうした日記をつけることによって、人は苦痛な、ネガティヴな諸印象から解放される。ポジティヴな印象は多くは反応を清算する必要がない」からだと。旅行記などのメモ書きを除いて――
「
たいてい日記は不完全な晴雨計(バロメーター)のカーヴに似ていて、『低』の、一番圧力の強い不況の時ばかりが記録されて、『高』の方は記録されないものだ。」
この法則は、カフカの日記にも妥当する…というのだ。カフカなブログにも?
ウロコとは言わないけれど。目からメガネが落ちる感じはした…。全集を編んだ人だから。カフカの事はもちろん知りつくしての人の。言葉だろう。ポジティヴな印象は反応を清算する必要がない…?なんですとっ。つまり。あっちには笑顔があって。笑えなかったものだけが。こちらに残っていると。遺っている…となると。あの救いがないほど。憂鬱で翳りがあって。神経質で神秘的で。鷹のように冷たくハンサムなフランツ・カフカ様が。大きな口をあけてがはははと。高笑いする顔が浮かんでしまいまいしたではないか。超特急で訳すと「日記→清算できなかった日々の出来事」…。
文学の親の顔を見たようで…ちょっとショックだ。だって。だったら。しあわせになれるわけがないじゃない。文学って。いっしょうけんめい幸せになろうとしている、不幸せの子。のことじゃないか…どーする?あたし。
いやいや。文学は。しあわせになりきれなかった日々の しあわせになろうとする つづきであると…信じれば しあわせになれる かな。
しあわせをさがす犬。ときどきは掘ってまで。。。
パソコンの中から、いろんな文章のきれっぱしが出てくる。これもどこかで書いたのかもしれない。ちょっと面白かったので、消す前に、ここに置かせてね。重複御免。
12月は大掃除の季節――ぱそこん内もちょこちょこと。